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余録 終戦直後の夏。当時のソ連によって抑留され、強制労働に苦しみながらも、画家は絵の具箱を手放さなかった。帰還後に「シベリア・シリーズ」を描いた香月(かづき)泰男だ▲<生命そのものが危険にさらされている瞬間すら美しいものを発見し、絵になるものを発見せずにはいられなかった>。そんな自分を香月は<絵かき根性のあさましさ>と書き残した。だが、そうであったからこそ逆境でも自分を保っていられたと振り返る▲戦後75年。香月のことが思い浮かぶのは彼が国家と個人について深く考えていたからかもしれない。ソ連ばかりでなく、日本の戦争指導者への怒りを隠さなかった▲こんな作品もある。粉雪が舞う中、兵士のデスマスクを紙が覆う。紙には国への忠誠を説く「軍人勅諭(ちょくゆ)」が記されている。国家権力への痛烈な批判である。一方、凍土に葬られた戦友が雪解けで現れたさまを暖かい色で描いた。仲間の鎮魂だった▲今年の全国戦没者追悼式で安倍晋三首相は昨年の式辞にあった「歴史の教訓を深く胸に刻み」の言葉を使わなかった。そして外交・安全保障で国際貢献を進める「積極的平和主義」を初めて盛り込んだ。その13日後、首相辞任を表明した。国はどこへ向かうのか▲香月はシベリアの空を見上げた。<この太陽は、月は今しがた(日本の)家族等が仰ぎ眺めたであろう>。戦争は<郷愁との戦い>だった。日本人が香月のような思いをすることが二度とあってはならない。描いた太陽と月は悲しいほど美しい。(毎日新聞・2020/09/07)

●(1911-1974)洋画家。山口県大津郡三隅村(現三隅町)生れ。東京美術学校(現東京芸大)に在学中から国画会に出品、同人となる。1939年、新文展で特選。1943年に召集され、満州へ。捕虜としてシベリヤに抑留され、過酷な体験を経て1947年にやっと復員がかなう。シベリヤでの体験が『埋葬』に代表されるシベリヤ・シリーズを生み出し、1969年第一回日本芸術大賞を受賞。他に『告別』(東京国立近代美術館)、『奇術』(京都国立近代美術館)、『雪』(山口県立美術館)など。ふるさとの三隅町には香月美術館もある。(新潮社編)
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東京に出てきた当時は交通の便もよかったせいで、ぼくはあちこちに出かけた。本郷を起点に上野やお茶の水・神田は徒歩圏だったし、地下鉄で銀座や新宿に出歩いた。多くは展覧会や画廊回りだったが、今から考えてもよく見て回ったものだと、感心する。ぼくの京都時代の先輩たちが銀座や新橋の画廊を借りて「個展」をするというので、(陳腐な作品だと思いながら)足しげく通ったことも何度かあった。上野では大きな美術展が年中開催されていたが、ぼくは人混みが嫌いなので、まずいかなかった。でも常設展や地味な展覧会にはマメだった。香月泰男さんはどうだったか、画集が先だったかもしれない。日本橋の丸善には月に何度も赴いては画集や書籍を手に取った、ぼくには美術館や画廊以上に貴重な経験をしていたのである。以来、丸善はぼくのたまり場となった。

「余録」氏の文章で久しぶりに香月さんのことを思い出した。ありありと彼の画面に展開される筆致や陰影が浮かんでくる。シベリア抑留と言えば、真っ先に石原吉郎さんですが、香月さんの訴えも静かだが強烈に届いたような気がする。(長門は最長不倒PMの父親の郷里でもあったことに気づいたが、それだけのこと)
シベリアも片はついていない。いや、果たして歴史のなかで片がつくということがあり得るのかと思う。石原さんの詩に「おれよりも泣きたいやつが おれのなかにいて」、でも泣くのはいつも「おれだ」というものである。「おれよりも泣きたいやつが 泣きもしないのに、おれが泣いても どうなりもせぬ」どういうことなんだ。(ヘッダーは石原吉郎氏)
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