「しないほうがいいのですが」

急ぎの業務があるときは、ターキーかニッパーズをその用件で呼びつけて、短い文書の照合に私自身も立ち会う習慣にしていた。バートルビーを仕切りの向こうの、私の手の届くところに置いたのは、一つには、そうしたつまらない用件をこなすのに彼を使えればよいということがあった。彼が私のところに来て三日めのことだったと思う。彼自身の書きものを点検する必要が生ずる前だったが、私は、手もとにあるちょっとした仕事をかなり急いでしあげようとしていた。そこで私は、唐突にバートルビーを呼んだ。急いでもいたし、当然のことながらすぐに従ってくれるものと期待してもいたので、私は腰掛けたまま、机のうえの原本に目を落としながら、筆写したほうの書類をもった右手を脇のほうにいささか神経質に伸ばしていた。そうすればバートルビーは、引きこもったところから姿を現して即座にそれをつかみ、いささかの遅滞もなく業務を遂行できるだろうと思ったのだ。

 彼を呼んだとき、私はちょうどそのような姿で腰掛けていた。そして、彼にやってもらいたいことを早口で述べた。―つまり、私と一緒にちょっとした書類を点検してほしい、と言ったのである。ところがバートルビーは、自分の私的領域から動くこともなく、特異なまでにおとなしくも堅固な声で「しないほうがいいのですが “I would prefer not to”」と応えた。そのときの私の驚き、いや狼狽を想像していただきたい。

(メルヴィル『バートルビー』高桑和巳訳、ジョルジョ・アガンベン『バートルビー 偶然性について』所収。月曜社刊、05年)

 メルヴィルという小説家の作品を読んだことがありますか。『白鯨』に代表される彼が書いた短編『バートルビー』(1853年)はいかにも奇妙な主人公の態度を描いています。筆生(筆者係)として「私」に雇われたバートルビー。なにかを頼まれると「しないほうがいいのですが」とかたくなに依頼を拒む。「君はこれを拒否するのか」といっても、「しないほうがいいのですが」としかいわない。こんな雇われ人がいるだろうか。まるで謎のような人物、それがバートルビーです。

 「することができない」のではなく、「しないことができる」という一貫した態度とは?

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 もう十年以上も前に読んだままでいたのですが、今日、車を運転中に突然「「しない方がいいのですが」という言葉が動き出した。いったいどうしたというのか、ぼくは驚愕したのですが、少し落ち着いてから、メルヴィルだったんだ、彼がぼくを呼んだのだと思いついた。それはどうしてだったか、今は書かない。この「バートルビー」という短編に驚いた瞬間がありありと甦ったのでした。是非一読をお勧めします。今に通じるのではなく、人間の存在の根底に横たわる謎、それをメルビルは深く掘り下げたのです。あるいは、「見るべきもの(see what needs to be seen)を見てしまった」人だったのかもしれません。まるで知盛ですね。

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●Herman Merville(1819-1891)アメリカの作家。12歳で父親を亡くし、様々な職を経た後、南太平洋の島々を4年間放浪。1846年にその体験をもとにした小説『タイピー』を出版する。以後『オムー』『白鯨』『マーディ』『ピアザ物語』等を刊行するが、作品は売れず1866年にはニューヨーク市の税関に就職した。メルヴィルの作品は生前には殆ど評価されなかったが、現在ではアメリカ文学史上で高い地位を占めている。(新潮社編)

 アメリカ本国ではどうだかわかりませんが、この島社会での彼の扱われ方はぞんざいに過ぎると、ぼくには思われます。(新潮社の紹介記事などはその代表です)『白鯨』のみが過大に喧伝されているきらいがあります。どんな人でもそうでしょうが、彼の生い立ちや育ちがどんなに「人の生涯」を左右するか、それを如実に示していると、(言わずもがなの事だから)たしかに変な感想ですが、ぼくはそう思いました。ていねいにメルビルを再読したくなりました。

 本来なら、今少し小説作品の内容に立ち入るべきだと思うのですが、今回はここまでにしておきます。彼が覗き込んだ謎は、じつは見てはいけなかったものだったのでしょう。彼が最深部にまで目を届かせようとしたその底には、大きな穴が開いていたのです。どこまでいっても底に至らない、そんな道筋を知っていた主人公は「しない方がいいもですが」というほかなかったのです。

 メルヴィルの生涯は形容しがたい、起伏に富んだといっていいのかどうかもわからないものでした。伏ばかりだったかも。よく「波瀾万丈」というし、「数奇な」とも言いますが、それでは表現し足りない人生であったと、微温どっぷりのぼくなどには思われてきます。こんなにも振幅の大きい揺れというものがあるのだろうか。彼が船乗りになったり、四年余の南洋航海にでかけ、一転してニューヨークで「税関」の職員を十九年も務めます。

ぼくはバートルビーはメルヴィルだったと、今はっきりとかわかりました。(「コトバンク」のメルヴィルに関する解説は異様。https://kotobank.jp/word/%E3%83%A1%E3%83%AB%E3%83%93%E3%83%AB%28Herman%20Melville%29-1600348)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)