
豪奢富而不足、何如倹者貧而有余。
能者労而府怨、何如拙者逸而全真。(前集五五)
(奢る者は冨て而も足らず、何ぞ倹なる者の貧にして而も余りあるに如かん。
能ある者は労しても怨みを府(あつ)む、何ぞ拙なるもの逸して而も真を全うするに如かん。)
(洪自誠著『菜根譚』今井宇三郎訳注 岩波文庫版)
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訳文(豪奢な人は、いくら富裕であっても、(贅沢するので)、いつも不足がちである。ところが、倹約を守る人は、いくら貧乏であっても、(つつましいので)、いつも余裕がある。つつましい方が、どれほどよいかわからない。また、才能のある人は、一所懸命に苦労して、しかも人々の怨みを集めることになる。ところが、知恵のないものは、(野望をいだくこともないので)、いつでも気楽にしていて、天性の自然を保っている。知恵のないものの方が、どれだけよいかわからない。)(岩波文庫版による)

言わんとするところは自明のようではありませんか。奢れるものは貧者に勝るのか。能ある者は拙なるものに勝るのか。どうして後者が前者より優れるのか、ぼくたちには明白な事柄かと言えば、なかなかそうは言えそうにないのです。その理由は、どこにあるのか。まあ、心持ちといいますか、生活態度の核心をついているようにも読めますし、これなら「おれだって」とまんざらでもないと考える向きもあるかもしれません。ところが、どっこい、なかなか簡単じゃないのが「世に生きる」という術というか業というか。レーベンスクンストなどという外国語もあるほどです。あえていうなら「処世術」です。なかなかのもんでしょう、それなりに生きていくのは。今は(今も)、生きづらい時代だというらしいが、いつだってそうじゃなかったかというのも本当のようで、このことも少しはっきりさせてみたい気もします。

『菜根譚』、ぼくは腰を据えて読んできたというのではありません。あまり忠実な読者ではなかったと告白しておきます。理由は? ほかにいくらも読むものが山積していたからであり、若い時にまじめに読んでいいのかしら、若いのにこれにかかわっていていいの、と愚考したからでもあります。この年齢になり、改めて、肩ひじも神経も張らないで(使わないで)、のんびりと読んでみたらどうかしら、と酷暑とコロナの中で思い立ったというわけです。折に触れて、この処世哲学を紐解いてみたいし、中国の明時代のいくばくかが理解できるなら、それは望外の喜びでもあるのです。うまくいきますか。あまり目立つな、自足を旨とし、他者の評価を当てにするなよ、という生き方のススメです。(右は伊勢の便秘薬「萬金丹」、「菜根譚」は精神の便秘薬か)

●菜根譚=中国,明末の洪応明(自誠)の語録。2巻。合計356条の短文よりなる。出処進退,処生訓,人生の楽しみなどを儒教を中核に,道教および仏教をも取り入れて,対句構成の簡潔な文章で説いている。哲学的にはとるにたりないが,人生の辛酸をなめた著者が深刻に開陳したその人生訓は人びとを魅了し,中国におけるよりはむしろ日本において禅僧をはじめとする多くの読者を得,今日でも隠れた読者をもっている。【吉田 公平】(世界大百科事典 第2版の解説)(どこかですでにこの部分も出しておきました)
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