幻影の人は去る 永劫の旅人は…

旅人かへらず 西脇順三郎
 
旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃

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 何時のころからか、西脇順三郎を読む癖がついた。中味はよくわからなかった。その癖も理解力も、今も同じままである。難解と言えば、どんな詩も(文章も)難しい。だから、ぼくたちはわかったつもりになったり、わかったふりをするのだろう。この「旅人かへらず」の詩の内容は戦争中のこととされる。ならば、そこに厭戦や反戦の気分を嗅いでも間違いはなかろうし、けっして好戦的ではなかったことも事実だ。同じ時期、同じ勤め先に折口信夫(釈超空)もいたはず。折口さんは民族主義者であるといえば非難されそうだが、ナショナリストだったことは確かだろう。その対比で西脇さんを考えてみたい気もするのである。大学に余裕のあった時代の一風景といえよう。

 「考へよ人生の旅人」「永遠の生命を求めるは夢」、かくいう「幻影の河童」とは誰のことだろう。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)