
天声人語 自分のことを大切に思う。自分自身に価値を見いだす。そんな心の動きを自尊感情という。多少なりともそれを持てないと生きづらいが、往々「自分はダメだ」と落ち込むのもまた人間である▼といったことを考えたのは、最近ヘイトスピーチ(憎悪表現)が議論の的になっているからだ。人種や国籍で人を差別し、侮蔑し、貶(おとし)める。例えば「韓国人を殺せ」などと、どぎつい言葉を発しながら在日韓国・朝鮮人の多い街中を練り歩く▼あまりのエスカレートに国会の論戦でも取り上げられた。谷垣法相は「品格ある国家、成熟した社会」という方向と正反対だと嘆いた。安倍首相も言った。彼らは「結果として自分たちを辱めている」▼仲間うちと違う属性を持つ人たちを攻撃し、その尊厳を傷つけることで優越感を持つ。満足を覚える。それは彼らの自尊感情の歪(ゆが)みのなせる業か。それともそれを持てないが故に代償を求めているのか▼司馬遼太郎の短いエッセーに「常人の国」がある。わが母校、わが社、わが民族……。「わが」と限定されると〈人間の情念はにわかに揮発性のガスを帯びる〉。ガスの素(もと)になるのは自己愛である。〈人はそれを共有して吸うとき、甘美になる〉▼ヘイトスピーチをたしなめる首相も、歴史認識をめぐる問題ではこの気体を吸い込んでいないだろうか。本当の誇り、自尊の心は、過去を謙虚に直視するところから生まれるだろう。常人の国であるためには「勇気と英知」がいると司馬は書いている。(朝日新聞・13/05/12)
「他国を中傷、自分たち辱めている 安倍首相、ヘイトスピーチに言及 参院予算委」

安倍晋三首相は7日の参院予算委員会で、人種や宗教などで、ある集団をおとしめたり暴力や差別をあおったりするヘイトスピーチ(憎悪表現)が国内で増えていることについて「一部の国、民族を排除する言動があるのは極めて残念なことだ」と述べた。/ 民主党の鈴木寛氏が、東京・新大久保や大阪・鶴橋で繰り返されている「朝鮮人を殺せ」などと連呼するデモを念頭に質問。安倍首相は「日本人は和を重んじ、排他的な国民ではなかったはず。どんなときも礼儀正しく、寛容で謙虚でなければならないと考えるのが日本人だ」と訴えた。/ 首相が使っているフェイスブック(FB)にも同様のコメントが読者から寄せられていることを認め、「他国の人々を誹謗(ひぼう)中傷し、まるで我々が優れていると認識するのはまったく間違い。結果として自分たちを辱めている」と、FBでエスカレートしないよう訴える考えを示した。(朝日新聞・13/05/08)
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なかなか立派なことは「言うだけ」の人でしたね。まるで蕎麦屋の釜です、その心は~「湯ーだけ」。言葉の軽さを軽妙とも洒脱ともいうのかどうか。ぼくは精一杯「軽薄」と言ってしまいたいPMだった。さらに言えば、不誠実そのものの御仁だった。自らの発言(失言・放言・妄言・雑言・虚言)の誤りを指摘され、ほとんどが「意図はそうではなかった」、「そう受け取られたなら、(いやいやだけど)誤る」というような寝言を言います。「虚言」の最たるものでしょう。「他国の人々を誹謗(ひぼう)中傷し、まるで我々が優れていると認識するのはまったく間違い」と、言ってのける厚かましさ。厚顔無恥であり、傲岸不遜だと、ぼくはずっと感じていました。まったく美しくない。潔くもないね。同僚国会議員を侮辱し、選挙民を侮辱するのがカッコいいと誤認していた、情けないひとだったと思います。美しくなかった。(早くに指摘しておきましたが、不倒新記録だけが生きがいでしたね)(辞める理由がなんだか?)
「天声人語」で引用されている司馬さんには次のような指摘があります。(この文章は、すでにどこかで引用しておりますが、あえて再度引いておきます)

《 さらに日本の場合厄介なのは、日本にはパブリックなものの意識がないことです。よくわかりませんがヨーロッパには都市国家の精神というものが生きていますね。たとえば「自分たち」の公園というようなものがある。具体的にある。自分たちの公園があれば、自分たちの町があり、自分たちの国につながる。われわれには「自分の」というものしかない。三坪の庭をやっと確保して、庭だ庭だと叫び、そこで安心立命している。どうも成り立ちが違うのではないだろうか、よく日本人は公徳心がない、といわれますが、このないということはどうも根が深いようです。(↑ 上野恩賜公園)
私の住んでいる大阪の東郊の東大阪市というところは、街路樹が非常に少ないところなのですが、市役所のひとにきいたら、植えても植えても抜かれてしまうからだそうです。これなど、道徳の問題として考えるよりも、社会人間としての成り立ちが違うんだと考えた方が、わかりやすいようです。日本は国家がなくなると悲惨な国民だ、という言い方ができるかも知れない。いい悪い問題ではありません。事実問題です。そこでこうした日本人の条件を考えながら、これからの国家というものを考えなければならないわけです。といって別段いい智恵があるわけではない。
それは、もう一ぺん市民社会教育をしなおす、という方法です。つまり「自分たちの」というヨーロッパ風の意識を国民総がかりで建設することです。われわれはたやすく市民社会という言葉をくちにするが、そんなもの実はほとんど身についていない。市民社会はヨーロッパでは自然発生的歴史的なものだが、われわれにはまったくの借り衣だった。それを、できるかどうか知らないが、とにかく皮膚の一部にまで持っていこうじゃないか、というのは、どうでしょう。
街路樹の二本や三本抜くかも知れん国民に適合した国家というのは、実は警察国家です。しかしわれわれはこれにはコリゴリしている。警察国家は願い下げだ。となれば、われわれは歯をくいしばっても本当の市民社会を一度つくってみよう。その上でもう一ぺん国家というものを考えてみよう。この方法しかありません 》(司馬遼太郎「日本史から見た国家」)

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「わが」と「自分たちの」とは中身がちがうようです。全員が「わたし」となって固まるのが「わが」であり、「ぼくもきみも」とたがいのちがいをも認めた上でなりたつのが「自分たちの」ではないか。前途洋々であり、お先真っ暗です。(→ 千葉市民会館。この箱の中に千葉市民はいても、ただの「市民(cvil)」はいるか)
他国よりも「我が美しい国」は優れていると言い募ってきたのはだれだったか。自分の発言を指摘されて「言っていない」と言い張るのもまた、不誠実の見本です。「言ったかもしれない」という謙虚さが欠けていること甚だしい。(駄文を綴っている部屋の温度は30.5度。嵐の前の強熱地帯ですね。20/09/04/16.50PM)
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