踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら

 よろしくない傾向ですが、懐旧談に及びます、お許しください。まだ中学生の頃でした、もう半世紀以上も前になります。親父の仕事仲間の一団でバスを仕立て、そろいの浴衣を着流して徳島まで赴いたことがあります。多分一泊したはずです。目的は「阿波踊り」に参加するためです。京都市内を出るころから盛り上がり、往路は大変な騒ぎでした。その夜の踊りがどういう具合だったか、ぼくには記憶が全くありません。袋に関しては皆目意識なし。京都のおふくろの所に写真があったから、踊りに参加したのは確かです。「●●連」などと詐称した浴衣でした。

 それから数十年の後、ある集まりで友人ができました。その人は高円寺に住んでいて、地域活動をさかんにしておられた方でした。ある折、町でも阿波踊りの催しをするんだと、さかんに話を聞かせてくれました。彼が徳島出身だったかどうか、忘れました。今では高円寺の阿波踊りと言えば、大変な盛況を誇っているのですから、彼はじゅうぶんに力を発揮されたんでしょう。今も無事かどうか、(ぼくは、つきあいに薄い人間です、これが大きな欠点かもしれません)えらそうに、「君子の交わりの淡き事、水の如し」などとふざけきった振舞いを通してきました。どんなに親密になっても(昔から「蜜」は嫌いでしたよ)、あっさりしていました。それはぼくの性分でしたから。京都の堀川に「淡交社」という会社がありました。今もあるか? ぼくはこれをよく見ながら前を通ったものでした。

 一般に夏祭りとそれに伴う踊りには地域地域の異なったいわれがあるものです。元来は「盆踊り」で、農閑期の楽しみであったり、お盆の精霊祭りの一環であったと思われます。(ぼくはそんなこともすべて、柳田国男さんから学びました。国語の教科書に採録されていましたから、ご存じの方は多いでしょう、「清光館哀史」。これは何回読んだかわかりません)その昔は豊作の祈願だったり、精霊迎えや送りの年中行事でしたろうが、いまはすっかりエンタテインメントなのでしょうな。年寄りには寂しい限りですが、寄せくる年波(時代)の仕業だから、抗するすべもありません。

精霊踊り念仏踊りが原形であるといわれるが、起源は明らかになっていない。徳島藩が成立して以後、盛んに踊られるようになったとされる(徳島市観光協会の説明より)。天正14年(1586年)、徳島城が竣工した際、当時の阿波守・蜂須賀家政が城下に「城の完成祝いとして、好きに踊れ」という触れを出したことが発祥という説もある(蜂須賀入城起源説)。江戸時代には、一揆につながるとの理由で阿波踊りが禁止されていた時期もあった。その令を犯し、自宅で阿波おどりを行った家老がお家断絶になったという。また戦時中にも一時阿波おどりは禁止された。

 阿波踊りという名称は徳島県内の各地で行われてきた盂蘭盆踊り通称であり、昭和初期からそう呼ばれるようになった。この名称は日本画家林鼓浪徳島商工会議所(当時は商業会議所)に提案したものとされる。尚、徳島市や高円寺の阿波踊りではポスター看板等において専ら「阿波おどり」と表記される。また、徳島県が発行する印刷物等においても「阿波おどり」で統一されている。」(Wikipedia)

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 本年はいたるところの「盆踊り」はコロナ禍のために中止になりました。ぼくに言わせれば、こんな時こそ「虫封じ」のために、阿波踊り、盆踊りなのにと言いたいですね。でも稲作文化が廃れて文明の利器が田圃を席巻し、地方の暮らしも電化生活の上を行く時代状況です。(昨日、近所の田んぼで稲刈りを機械でやっていました。お年寄りがビーチパラソルをコンバインにさして、夕方まで精を出しておられました)マックやスタバ、コンビニやスーパーが張り巡らされている島社会です。でも、だからこそと、先祖返りが生じているんですから、阿波踊りもまともに復活してほしいし、主宰をめぐる醜いアヒル、いや争いも即中止してほしいですね、本場ですから。ぼくは富山の越中八尾の「おわら風の盆」にも行きました。富山出身の友人に誘われてでした。びっくりするほど風情がある踊りでありました。これは北と南の相違かもしれません(↑)

 なぜだか、この盆踊りを見ていると「涙そうそう」になります。気が滅入ったときには、きっとyoutubeで鑑賞することにしています。グールドもいいけれど、阿波も八尾も、捨てたものじゃありませんね。(大きな疑問を持っています。踊りに参加するには年齢制限があるのかしら。前期・後期高齢者は絶えて見られませんが)

(大事なことを失念しかかりました。「盆踊り」は「集団見合い」の機会でもあった。スマホもテレビもない時代の、絶好の出会いの場でしたから、田植えや稲刈りなどと並んで。互いにきれいに着飾って、…。いつでも明るかったとは限らないし、傘を深くかぶっているしで、直に見合って仰天ということもあったらしい。婚活だから、だから(原則)前期後期高齢者が除かれているんだな)

 阿波では百四十ほどの団体(連)、まあ「組」みたいなものがあります。ぼくはだいたい記憶しているし、何とか連の「だれちゃん」と、個有名で記憶している人が何人もいます。これはおじいの AKB や欅坂か。しかし阿呆連も、うまくなりました。ホンマにアホですな(←)。うまいもんです。同じ阿呆なら「踊らなそんそん」ですよね。また今晩も、何とか連の…。永田町の「茶番」なんぞ、犬も食わないね。でたらめ政治を継承するとは正直な。そういわなければ、役目が回ってこなかったのは先刻承知です、衆生は。

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 ゆく河の流れは絶えずして、しか…

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 政治に関心を持っている人間であると、ぼくは思ってはいない。もちろん、この島で生きているわけですから、まったく政治の状況と無関係に生活できるものではないのですから、その限りでは、時として批判や反対の行動に出ることはこれまでにもあったし、これからもあるはずです。デモには何度も参加したし、たった一人のデモ、そんなこともしてきました。上に掲げた選挙時の「メニュー(顔写真・お品書き)」、上段(冗談?)は2012年の、下段(花壇)は2014年の、「各党(格闘)」の衆議院選挙用のポスターだったと思います。たった二年で雲散霧消といいたいのですが、どっこい、昔の名前で出ています派があり、名を改めた旧態依然派あり、離合集散で「昨日の敵は今日の友」派があったりで、きっと皆さん親戚か縁者じゃないんですか。「同じ釜の飯を食う」だから、この島の政治レベルはちっとも上昇しないんだ。

 現在、ある政党がボス争いの風を装っていますが、「指定✖✖団」のようで、後継は前代を引き継ぎますので、代替わりの儀式みたいで、ぼくには興味がわかない。(番頭が社長になるみたい。営業政策も方針もまったく、善人後継は共同・共犯だったからね)つまりは、すべて永田町関係者の法事(政事)なんです。さまざまに口当たりのいいこと(でまかせ)を触れ回りますが、宴(試合)が終われば、「ノーサイド」。要するに、「喧嘩」の振りをしていただけで、いつでも仲間(同期の桜)だったというわけです。どんな集団にも「力学」が働きます。「あいつ可愛くないな」といえば、眼をつけられた方はだんだんに「仲間外れ」になります。町内会でも教室内でも会社内でも常時行われている、噴飯物、日常茶飯事(茶番劇)が着々と進んでいるという陳腐な風景でもあります。(「集まり参じて、人は変われど、仰ぐは同じき政治(お金)の力」というのは「永田町」の町内歌の一節です)

 「身を切る」「日本を取り戻す」「日本を切り開く」「この道しかない」「今こそ」「やっぱり」と、てんでんに新規さを競っているのに、代わり映えがしないのは、政治の一大特質ですね。「ちがうは同じだ」ということ。根は一つ。同じ穴の✖✖✖ということか。(さらにポスター制作会社も同じ、「中抜き専門」会社かも、鴨)

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