夫子、まさに木舌足らんと欲す

 儀封人請見、曰、君子之至於斯也、吾未嘗不得見也、從者見之、出曰、二三子何患者於喪乎、天下之無道也久矣、天將以夫子爲木鐸。

「金口木舌」は沖縄県のある新聞の「コラム」です。もう何十年も愛読してきました。コラムのいわれは、もちろん、「木舌」「金口(こんく・きんく・きんこう)」に由来します。「金口」は「仏語。釈迦 (しゃか) の口を尊んでいう語。転じて、釈迦の説法。きんく。きんこう。」(デジタル大辞泉)であり、「金口木舌」は「すぐれた言論で、世の人を指導する人のたとえ。口が金属で、舌が木で作られた大鈴の意から。「木鐸ぼくたく」のこと。古代中国で、官吏が法律や政令などを人民に告げ歩くとき鳴らした。「木」は「もく」とも読む。一世木鐸いっせいのぼくたく」(三省堂新明解四字熟語辞典)

 上掲の漢文は「論語八佾(はちいつ)編」から。「天下の道なきや久し。天将(まさ)に夫子を以て木鐸(ぼくたく)と為さんとす」と読め、「政道(あるいは人道)が失われて久しい。天はまさに先生(孔子)をして木鐸(優れた言辞で人民を導こうとする人)とされた」と解しておきます。

 新聞は「社会の公器」であり、「木鐸」でもあるなどと、この島社会では長く言われてきましたが、その意味は、実際には「そうなっていないから、そうであってほしい」という祈願というか、希望でしょう。(あるいは冗談だったかも)「希望」というのは「ほとんど望みなし」と同義です。ないものねだりか、それとも祈りに似たものとしてしか、見られてこなかったのです。

 ぼくはすでに「新聞は死んで久しい」とみなしています。テレビは遥かな昔に、ほんの一瞬ですが、光を放った時期がありましたが、いまは空疎・空虚です。だから、ネット(web)の中に一条の光明を見出したいんですね。いつでも、清濁混淆が世の姿です。そこから清と濁を見極める力を育てたいというのが、ぼくの思いです。水清くして、魚住まず。

 「佞言(ねいげん)と寸鉄(すんてつ)」を誤らずに受け止めるのは何か、それをぼくは問いたいのです。良薬は口に苦しとは古人の経験。いまは甘言こそが求められている、情緒過剰の時代です。寸鉄人を刺す、甘言ではなく苦言、そんな言をこそまずは求め続けたい。

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