さらに長田さんの文章を紹介しながら、教育というものの現実性について考えを進めていきます。

《 言葉は、ふつう表現と考えられています。しかし、本当はそうではなく、言葉はむしろどうしても表現できないものを伝える、そのようなコミュニケーションの働きこそをもっているのではないかということを考えるのです。
言葉というのはその言葉で伝えたいことを伝えるのではない。むしろ、その言葉によって、その言葉によっては伝えられなかったものがある、言い表せなかったものがある、どうしてものこってしまったものがある、そういうものを同時にその言葉によって伝えようとするのです。
おなじ一つの言葉でも、その言葉でおたがいがもっているのは、おなじ一つの意味ではありません。
たとえば、「社会」という言葉。その「社会」という言葉は、車のように、車を指して「これは車です」とか、松の木を見て、「これは松の木です」というふうに、そこにあると指して言うことができません。

「これは社会です」と何かを指して言うことのできない、そういう言葉があります。そのような言葉で言い表されるものというのは、その言葉によってそれぞれ自分の心のなかに思いえがくもののことです。
ですから、それは、それぞれに違います。そうであって、それは、おなじ一つの言葉です。その言葉によって自分の心に思いえがいたものを伝え、そして同時に、その言葉によって言い表すことのむずかしかったもの、むずかしいものを伝える、そういったコミュニケーションのありかたを大事にできなければ、なにか大事なものが気づかぬままに人と人のあいだから脱落していってしまいます 》(長田弘「読書する生き物」『読書からはじまる』所収。NHK出版刊)
車は車であり、松は松。だれがなんと言おうとまちえようがない。ならば、教育は教育であり、人権は人権であると自明のこととしてつかって、まちがえようがないか。「おなじ一つの言葉でも、その言葉でおたがいがもっているのは、おなじ一つの意味ではありません」というところに、言葉がもっている困難な部分があります。それはまるで「松の木」だといったのに、はじつは「杉だった」ということになれば、まことに面倒な、いやそもそも会話がなりたたなくなってしまいます。

《 自分が生まれる前からずっとあって、言葉は、わたしたち自身より古くて長い時間をもっています。ですから、わたしたちは言葉のなかに生まれてくる。そして、自分たちがそのなかに生まれてきたもっとも古い言葉を覚える。成長するとは、言葉を覚えるということです。つくるものではなく、あつらえるものでもない。覚えるものが言葉です。
毎日の経験を通して、人は言葉を覚えます。覚えるのは、目の前にある言葉です。自分の毎日をつつんでいる言葉です。自分がそのなかに生まれてきた言葉というものを、あるいは言葉の体系というものを、自分から覚えることによって、人は大人になってゆく。あるいは、人間になってゆく。そういうものが、言葉です。
にもかかわらず、覚えて終わりでなく、覚えた言葉を自分のものにしてゆくということができないと、自分の言葉にならない本質を、言葉はそなえています。
言葉を覚えるというのは、この世で自分は一人ではないと知るということです。言葉というのはつながりだからです。

言葉をつかうというのは、他者とのつながりをみずからすすんで認めるということであり、言葉を自分のものにしてゆくというのは、言葉のつくりだす他者とのつながりのなかに、自分の位置を確かめてゆくということです。
人は何でできているか。人は言葉でできている、そういう存在なのだと思うのです。言葉は、人の道具ではなく、人の素材なのだということです》(同上)
よく「ことばは道具(ツール)である」などという。それはことばのどこ・なにをさしていうのでしょうか。鋸(のこぎり)や鉋(かんな)はたしかに道具です。材木を切ったり削ったりするには役に立つし、それ以外の用途はあまり考えられそうもないからです。鋸は鋸、鉋は鉋、それ以上でも以下でもありません。しかしそのような意味で、「言葉は道具である」か。

どんな物事もことばで表現できるというのはうそです。言葉はたんなる道具ではないからです。たとえば「歴史」。これが歴史だと指でさすことも手で触れることもできない。「車」なら、言葉はいらない。現物があるからです。目に見えないけれど、たしかにある、しかもだれにも共通する言葉では言い表せない、それを表現するのが言葉です。「人権」という言葉は読み書きできる、でもそれが何であるかは語りがたい。それを表すのが自分の経験です。経験を言葉にする、言葉を経験する。それが欠如しているのが「情報化」といわれる時代です。知って(暗記して)いるだけの言葉が多くなると、自分を確かめる言葉はたえず失われてしまい、それに気づかないからです。
豊かで貧しい国(社会)といわれます。それは「豊かだとおもいこんでいるが、じつは貧しい」であり、「物は豊かだが、こころは貧しい」であり、「豊かである、そのことが貧しい」ということでもあるでしょう。そして、言葉に対する学校教育の状況は、まさしく「豊かで貧しい」ではないでしょうか。言葉は育てなければ豊かにならない。育てるのは自分です。自分で言葉の種を播いて、自分でそれを育てる。ある一つの言葉に自分流の実や花をつける。それはけっしてデジタルなものではなさそうです。「教育」というのはそのような感受性の問題でもあるのです。
子どもにとって教師はことばの種を播くひとであり、播かれた種を自分で育てるのは生徒(自分)です。教師もまた、自分のことばの種を育てるひとであるのは当然です。

「人は何でできているか。人は言葉でできている、そういう存在なのだと思うのです」
人を育てるというのは、だから言葉の力をつけることでもあるのだ。テレビを使った授業、テレエデュケーションがさかんに勧められている今、はたして「ことばの種をまく」「ことばの種を育てる」ことは可能か、と聞くまでもないでしょう。コミュニケーションというのは交わりであり交渉であり交通であり交換でもあります。面と向かって、というのは教育(授業)のいのちだと、ぼくはつたない経験から学んできました。(あるいは、さらにつづくかも)
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