無用の混乱を招かぬよう賢慮を

 1960年代から18年間もソ連の指導者だったブレジネフは勲章を胸に並べるのが好きだった。その手術の時に「また心臓か?」「いえ、もう一つ勲章をつけられるよう胸を広げるのです」という笑話もある▲この話は、ブレジネフが脳梗塞(のうこうそく)や心臓発作を何度も繰り返し、手当てを受けてきたことをも示している。「晩年のブレジネフは自分が何をしているのか、ほとんど分かっていなかった」とは後のロシア大統領エリツィンの回想である▲その病状で長期政権を保てたのは、何もしないのが一党支配下の既得権者の利害に合ったからだ。病身のトップはソ連体制の行き詰まりの表れだった。指導者の病気といえば、すわ権力闘争と思うが、歴史にはこんなパターンもある▲こちらは日本の憲政での長期政権の記録を次々に塗りかえた安倍晋三首相の健康不安である。きょうの記者会見で健康問題も説明するとのことだが、その発言内容次第で今後の政治日程もがらりと変わるから政界も息をのんで見守る▲13年前には腸の難病で第1次政権を投げ出した首相である。最近「疲れ」がささやかれる中、2度の通院検査が臆測(おくそく)を呼んだのも仕方ない。しかも今はコロナ有事、政府トップの知力や決断に国民の生命や暮らしがかかっている時だ▲プライバシーの極致である健康も、政治的論議のまな板にのせられるトップ政治家の宿命である。首相一身の健勝は祈りたいが、その健康状態がコロナ禍下の政治に無用の混乱を招かぬよう賢慮を求めたい。(毎日新聞「余録」2020/08/28)

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 「何もしないのが一党支配下の既得権者の利害に合ったからだ」という余録氏の指摘は、あるいはこの島社会の政情にも妥当するのではないか。ぼくのあやふやな見立ては、そうでした。大変な力量があったから「最長不倒」を記録したのではない、その反対だと思う。何もできないし、しようという意志もなかったから、周りがお膳立てをし、お膳(御輿)の上に載せていただけではなかったのか。官僚は千載一遇の好機と我を張りとおした。内閣府・官房が異様な力を持ち、あらゆる人事権を含めた権限を集中させた結果、PM自身も身動きできないほどにシステムは強化されていた。操られた時間は長かった。

 さて、何をした政権だったか。大方は不評だが、ぼくは違う意見を持っている。官僚が好き放題をし、嘘も方便を実行した。不倫や汚職もやりたい放題。公文書の改ざんや記録の破棄や改竄もお咎めなし。果ては検察支配にも及んだというのは、まれにみる政治的成果(人民にとっては、縊り殺したいほどの悪政だった)を誇っていいと思う。辞めるのを決めたのは24日とも。最長不倒記録達成が生きがいでした。こんな逸材は再び出ないことは間違いなし。祈る。

 後は野となれ山となれ。反対に、鷺は立ちての跡を濁さず、というのもあります。敗戦後七十五年。いろんな政治家や政治屋が出が、今回も「後は野となれ山となれ派」でしたな。よくやりましたよ。時宜を得るというのは、確かにあるんですね。いい・悪いの両面に。社会奉仕か社会貢献か知らないが、健康を理由にお辞めになったのは結構でした。

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 ジェンダー新論の所在を探るために 

米ニューヨークで行われた「ロバート・F・ケネディ・ヒューマン・ライツ」のイベントで受賞スピーチを行う英作家のJ・K・ローリングさん(2019年12月12日撮影)。(c)Bennett Raglin/Getty Images for for Robert F. Kennedy Human Rights/AFP
【8月29日 AFP】ファンタジー小説「ハリー・ポッター(Harry Potter)」シリーズを手掛けた英作家J・K・ローリング(J.K. Rowling)さんは28日、米ケネディ家が運営する人権団体の代表が自身のトランスジェンダーに関する見解を批判したことを受け、同団体から授与された賞を返還すると表明した。/ 米人権団体ロバート・F・ケネディ・ヒューマン・ライツ(Robert F. Kennedy Human Rights)は昨年、ローリングさんに「希望のさざ波(Ripple of Hope)」賞を授与した。/ だが同団体のケリー・ケネディ(Kerry Kennedy)代表は今月出した声明で、ローリングさんのジェンダーについての主張がトランスジェンダーの人々の「アイデンティティーをおとしめた」と表明した。
 
 ローリングさんは自身のウェブサイト上で、ケネディ氏の声明は「私がトランスジェンダーを嫌悪し、トランスジェンダーの人々に対する害について責任を負うという誤った見方を示唆する」ものだとし、「私はこの批判に断固として反論する」と表明。/「私に連絡してきたけれど自らの声を届けることができずにいる人々との連帯を示すため、そして私自身とロバート・F・ケネディ・ヒューマン・ライツとの間には深刻な見解の相違があることから、希望のさざ波賞を返還せざるを得ない」と説明した。/ ローリングさんは今年6月のツイッター(Twitter)投稿で、「女性」の代わりに「月経がある人」という表現を使用することについて、「以前はこの人たちのことを指す言葉があったはず。誰か手を貸して。ウンベン? ウィンパンド? ウーマッド?」と、女性を意味する「ウィメン」を思わせる言葉を並べてコメント。/ この投稿には批判が殺到し、映画「ハリー・ポッター」シリーズで主演を務めた英俳優ダニエル・ラドクリフ(Daniel Radcliffe)さんら出演者も非難の声を上げていた。(c)AFP (右写真の中央がケリー・ケネディ代表)

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  どんなに言葉を取り繕っても、その言葉を使っている当人の中に「差別感情」や「蔑視観」があるなら、それは問題になるのは当たり前です。今回のローリングさんの問題も、どちらが正しいとか間違っているという以上に、コトバに対する感受性が欠けているという思いが付きまといます。「自分はトランスジェンダーを嫌悪していない」という一方で、「そういう言葉がトランスジェンダーのアイデンティティを貶めた」という。交わる地点がどこかにあるのかないのか。

 言葉狩りと言葉の誤用、そんな問題でもありそうに、ぼくは考えています。

 今少し資料などを調べたうえで、さらに問題の所在を探求したいと思っています。(さらに別の稿で)

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 キャンセル・カルチャーはなに?

スマートフォンに表示された各ソーシャルメディアのアプリのロゴ(2020年5月28日撮影、資料写真)。(c)Olivier DOULIERY / AFP
【8月10日 AFP】有名人、ブランド、指導者、一般の人など誰もが、不快な行動を非難する「キャンセル・カルチャー」に巻き込まれている。批評家らは、このような非難はやりすぎで、社会の二極化に拍車をかけると指摘する。
 
 物議を醸すツイートだったり動画だったり何であれ、人々はすぐさまソーシャルメディアで説明を要求し責任を追及するが、これらが「炎上」につながる可能性もある。
「キャンセル・カルチャー」は、個人や企業が不快なことを言ったり行ったりした場合、謝罪するか視界から消えるまで支援しないことで大勢が一致団結することをいう。
 
 ファンタジー小説「ハリー・ポッター(Harry Potter)」シリーズを手掛けた英作家J・K・ローリング(J.K. Rowling)さんは、トランスジェンダーについてのコメントが「キャンセル・カルチャー」の標的となった。(以下略)(https://www.afpbb.com/articles/-/3296531?cx_part=related_yahoo)

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 他人を批判するのも侮辱するのも、じつに安易に行われる風潮に対して、何ができるのか。あるいは放置しておけばいいのか。今のままでは、必ず法的な規制が(罰則を伴って)意図されることは容易に想定できます。「表現の自由」などというものは、他人を貶める言辞にさえも妥当すると、ぼくは考えていますが、それを受け止める側がどのように感じるかで、確実に様相は変わってくると思います。「キャンセル・カルチャー」はアメリカの文化であり、時代の流れだとしても、それによって大きく傷つくことがあれば、看過できないのは当然です。批判や侮辱を行う側の感受性こそが問われています。さらにこの問題については愚考していくつもりです。(ぼくはSNSやtwitterはまったくくしません。そもそもスマホとかいう機器を持っていないんです)

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 この世で自分は一人ではない

 さらに長田さんの文章を紹介しながら、教育というものの現実性について考えを進めていきます。

《 言葉は、ふつう表現と考えられています。しかし、本当はそうではなく、言葉はむしろどうしても表現できないものを伝える、そのようなコミュニケーションの働きこそをもっているのではないかということを考えるのです。

 言葉というのはその言葉で伝えたいことを伝えるのではない。むしろ、その言葉によって、その言葉によっては伝えられなかったものがある、言い表せなかったものがある、どうしてものこってしまったものがある、そういうものを同時にその言葉によって伝えようとするのです。

 おなじ一つの言葉でも、その言葉でおたがいがもっているのは、おなじ一つの意味ではありません。

 たとえば、「社会」という言葉。その「社会」という言葉は、車のように、車を指して「これは車です」とか、松の木を見て、「これは松の木です」というふうに、そこにあると指して言うことができません。

 「これは社会です」と何かを指して言うことのできない、そういう言葉があります。そのような言葉で言い表されるものというのは、その言葉によってそれぞれ自分の心のなかに思いえがくもののことです。

 ですから、それは、それぞれに違います。そうであって、それは、おなじ一つの言葉です。その言葉によって自分の心に思いえがいたものを伝え、そして同時に、その言葉によって言い表すことのむずかしかったもの、むずかしいものを伝える、そういったコミュニケーションのありかたを大事にできなければ、なにか大事なものが気づかぬままに人と人のあいだから脱落していってしまいます 》(長田弘「読書する生き物」『読書からはじまる』所収。NHK出版刊)

 車は車であり、松は松。だれがなんと言おうとまちえようがない。ならば、教育は教育であり、人権は人権であると自明のこととしてつかって、まちがえようがないか。「おなじ一つの言葉でも、その言葉でおたがいがもっているのは、おなじ一つの意味ではありません」というところに、言葉がもっている困難な部分があります。それはまるで「松の木」だといったのに、はじつは「杉だった」ということになれば、まことに面倒な、いやそもそも会話がなりたたなくなってしまいます。

 《 自分が生まれる前からずっとあって、言葉は、わたしたち自身より古くて長い時間をもっています。ですから、わたしたちは言葉のなかに生まれてくる。そして、自分たちがそのなかに生まれてきたもっとも古い言葉を覚える。成長するとは、言葉を覚えるということです。つくるものではなく、あつらえるものでもない。覚えるものが言葉です。

 毎日の経験を通して、人は言葉を覚えます。覚えるのは、目の前にある言葉です。自分の毎日をつつんでいる言葉です。自分がそのなかに生まれてきた言葉というものを、あるいは言葉の体系というものを、自分から覚えることによって、人は大人になってゆく。あるいは、人間になってゆく。そういうものが、言葉です。

 にもかかわらず、覚えて終わりでなく、覚えた言葉を自分のものにしてゆくということができないと、自分の言葉にならない本質を、言葉はそなえています。

 言葉を覚えるというのは、この世で自分は一人ではないと知るということです。言葉というのはつながりだからです。

 言葉をつかうというのは、他者とのつながりをみずからすすんで認めるということであり、言葉を自分のものにしてゆくというのは、言葉のつくりだす他者とのつながりのなかに、自分の位置を確かめてゆくということです。

 人は何でできているか。人は言葉でできている、そういう存在なのだと思うのです。言葉は、人の道具ではなく、人の素材なのだということです》(同上)

 よく「ことばは道具(ツール)である」などという。それはことばのどこ・なにをさしていうのでしょうか。鋸(のこぎり)や鉋(かんな)はたしかに道具です。材木を切ったり削ったりするには役に立つし、それ以外の用途はあまり考えられそうもないからです。鋸は鋸、鉋は鉋、それ以上でも以下でもありません。しかしそのような意味で、「言葉は道具である」か。

 どんな物事もことばで表現できるというのはうそです。言葉はたんなる道具ではないからです。たとえば「歴史」。これが歴史だと指でさすことも手で触れることもできない。「車」なら、言葉はいらない。現物があるからです。目に見えないけれど、たしかにある、しかもだれにも共通する言葉では言い表せない、それを表現するのが言葉です。「人権」という言葉は読み書きできる、でもそれが何であるかは語りがたい。それを表すのが自分の経験です。経験を言葉にする、言葉を経験する。それが欠如しているのが「情報化」といわれる時代です。知って(暗記して)いるだけの言葉が多くなると、自分を確かめる言葉はたえず失われてしまい、それに気づかないからです。

 豊かで貧しい国(社会)といわれます。それは「豊かだとおもいこんでいるが、じつは貧しい」であり、「物は豊かだが、こころは貧しい」であり、「豊かである、そのことが貧しい」ということでもあるでしょう。そして、言葉に対する学校教育の状況は、まさしく「豊かで貧しい」ではないでしょうか。言葉は育てなければ豊かにならない。育てるのは自分です。自分で言葉の種を播いて、自分でそれを育てる。ある一つの言葉に自分流の実や花をつける。それはけっしてデジタルなものではなさそうです。「教育」というのはそのような感受性の問題でもあるのです。

 子どもにとって教師はことばの種を播くひとであり、播かれた種を自分で育てるのは生徒(自分)です。教師もまた、自分のことばの種を育てるひとであるのは当然です。

 「人は何でできているか。人は言葉でできている、そういう存在なのだと思うのです」

 人を育てるというのは、だから言葉の力をつけることでもあるのだ。テレビを使った授業、テレエデュケーションがさかんに勧められている今、はたして「ことばの種をまく」「ことばの種を育てる」ことは可能か、と聞くまでもないでしょう。コミュニケーションというのは交わりであり交渉であり交通であり交換でもあります。面と向かって、というのは教育(授業)のいのちだと、ぼくはつたない経験から学んできました。(あるいは、さらにつづくかも)

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