教える育てるというけれど、何を?

 前回の続きのような展開になりそうです。長田弘さんに敬意をこめて。

《 明治から今まで、ずっと勉強というのは、成績をあげ、受験して、競争して、競争に勝つか負けるかという、競うもの、争うものとして考えられてきた勉強です。言葉を学ぶということさえ、そうした競争である勉強の一つであり、論語も、シェイクスピアも、競争のなかで学ばれたわけです。

 けれどもこれからやってくるだろう、子どもがどんどんすくなくなってゆくだろう社会において変わらざるをえないのは、そのような勉強というもののかたちです。学ぶということが、勝つため、あるいは勝てなかったら負けてしまうような、競争のための勉強とは違ったかたちをもつことができなくては、先がなくなってくるからです。

 というのは、他人と競争する。他人と競争して、他人に勝つ。あるいは負ける。そのように勉強というものが、つねに他人を確かめる、他人との距離を確かめるようにして行われてきたということがあります。しかし、子どもがだんだんすくなくなってゆく社会では、他人に勝つために勉強する必要より、もっとずっと必要なのは自分を確かにするためにする勉強であり、自分を確かめる方法としての勉強がいっそう求められます。

 自分を確かにするのになくてはならないものは一つだけ。言葉です。自分を確かめるちからをくれるのは言葉です。

 肝心なのはそういう言葉にちゃんと出会えるかどうかであり、問題はそういう言葉と出会えるような言葉との付きあい方を、自分にうまく育ててゆけるかどうかですが、ただ言葉と情報とは違います。

 情報をたくさんもっていることが物知りと考えられ、情報をたくさん知っていることが世の中を知っていることであって、情報に通じていなければ遅れているとされるというのは、知っているか知らないか、情報の量を他人と競いあうことであり、情報のゆきつくところは、すなわち他人との競争です。

 しかし、情報がわたしたちを圧倒的にとりまいている今のようなとき、弱まっているのはむしろ情報でない言葉です。情報でないもの、非情報的なものというのが、しかし本当は、言葉にとっていちばん大事なものなのです。

 話している人がいる。後でその人が何を言ったか思い出せない。けれども覚えていないのに、その人はどういう人だったかというイメージは、ちゃんとのこっている。つまり、そのように、わたしたちは言葉を通して、すべて理解するのではないのです。話したのを聞いて、情報を得たから知るのではありません 》(長田弘「今、求められること」『読書からはじまる』所収。NHK出版刊)

 長田弘さんの文章、詩人の言葉であると同時に、今生きている人の言葉としてぼくは読んでいます。ここではどんなことがいわれているか。

 言葉をかんたんに理解したと思ってはいけないということです。使う人の経験に釣りあわない言葉は情報です。そんなレッテルだけの言葉(情報)はその人を確かめるすべにはなりません。たしかにあの人は話した、しかしどんな内容だったか思い出せない。でも話していた人の姿はわたしのなかにのこる。これが「他者の姿」だといっていいでしょう。この「他者の姿」に向かってわたしたちは語りかけるのです。それが対話です。それはけっして情報の交換でなどではなく、身ぶりや口振り表情、要するに話者の人柄が交わされるのです。

 「知識だけの言葉は」と長田さんはつづけます。それは言葉だけを知っていて、その言葉に対する感覚のない言葉です。その言葉がじっさいに経験されていないからです。情報としての言葉、情報でしかない言葉、それは言葉ではなく「シグナル」(信号)です。「赤」は止まれ、「青」で進め、「黄」は注意せよというときの、あの交通信号です。

 三歳の幼児が何かを話していました。その中に「結局は、…」という表現を使っていたのに一瞬でしたが、驚愕したのを覚えています。彼はそれが何を言っているのか、理解はしていなかった(ことがわかった)ので、なあんだ、と。

(sign・符号, 記号; 合図; 身ぶり, 手まね; 暗号; 看板, 標識; 証拠, しるし; 徴候)

(signal・信号, 合図; 信号機[灯]; きっかけ)

 たしかに信号機のような「言葉」が氾濫している。情報過多の時代にあって、かならず衰えているものがあります。それは言葉のちからです。言葉がかつてないほど氾濫していながら、言葉から力が失せてゆくという、逆説の時代にぼくたちは生きています。「人権」という言葉を読み書きでき、聞かれればその意味を語ることができても、「その言葉のイメージが生き生きと感覚されない」そんな言葉を毎日のように覚えさせているのが学校教育です。でも、力をもたない言葉は生きた言葉ではありません。

 ここから、学校教育でもっとも大切にされなければならないのがなんであるか、わかるというものです。教育は、ことに学校教育は「コンクール」ではないし、「コンテスト」でもないのです。(さらに続く)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。