
先年(2015年)亡くなられた詩人の長田弘さん。名うての読書家でした。彼の読書論から、たくさんの刺激を受けてきました。そのうちの一つからの引用です。題して「本という不思議」。本を読めと、誰もが、えらそうに言うが果たしてそうなのか。いつでもだれでも「読書のすゝめ」を強要されてきましたが、本はそんなに読むばかりが能ではないというのです。 ぼくはある時期までまったく本は読まなかった。それ以外にすることが山ほどあったからです。(それについては、どこかに書いておきました)

《 …日本の場合、保育園、幼稚園から大学まで、だいたいずっと同じ年齢でかたまって過ごすので、じぶんのまわりにいるのはみんな同じ世代だけです。ですから、ずっと世代と世代とが隔てられたまま、めいめいが社会から孤立したじぶんの世代のなかでそだつことになる。それだけにおたがいにその場の雰囲気とか隠語だとか、十分に言葉をつくさないでも喋りあえるし、わかりあえると思う習慣が、若いうちからいつか根づよく培われていってしまう、ということがあります。そのために、社会へでて仕事をするなり商売するなりするようになってからも、合言葉のある生き方をもとめ、合言葉を操る考え方をすっと受けいれて、何の不思議もないと思うようになってしまう。
しかし、実際は、そうではありません。社会というちがった言葉をもつちがった人びとからなるところでは、合言葉というのは通じるとところにしか通じないし、通じないところには通じない。それでは立ちゆかないのです。ですから、出来合いの合言葉にたよって考えるのでなく、合言葉にたよる生き方を疑うことによって、手ずから考える。みずから疑うところからちがった言葉と付きあうということがはじまるのであって、読書というのは本来、そうしたちがった人びとのもつちがった言葉にむきあう一人の経験を土台としています。》(長田 弘「なぜ本なのか」『本という不思議』所収・みすず書房刊)

「本を読む」というのはどのようなことか。まるで自明のようにみなされていますが、単純じゃないですね。学校では早い段階から「本を読め、読め!」とやかましくいいます。また、「国語」(なぜ、「日本語」ではないのか)の授業もこまぎれながら一貫してある。多くの人が本を読まなくなるのは「本を読め」という、節介なかけ声と、「国語」(「日本語」じゃない)の授業のせいじゃないかとぼくは経験から学んだ。「今時の若者は活字ばなれをおこしている」といわれてずいぶん時間が経ちます。でもよくかんがえてみれば、それは非難されるようなことではないんじゃないか。むしろ「活字ばなれ」を来しているのは「立派な大人」の側ではないか。安易に活字に近寄らない方がいいし、それがかえって、活字に接して新鮮な影響を与えられるはずです。つまり、何事によらず、時期というものがあるというのです。旬といってもいいかも。本を読む際の「旬」を間違えたくない。
長田さんはいわれます。極端な言い方かもしれぬが、若いときにあんまり本なんか読まなくてもいい、と。なぜなら「選別と排除の言葉でしかない合言葉をつくるしかないような若い世代の『ための』本のありようこそ、本という文化の地層をいつか崩してきたといっていいので、揶揄的にいえばいい年になってからジョギングなんかはじめるよりは、いい年になったらちゃんと本を読み、若いときにはちゃんとジョギングをしたほうがずっといい、と思う」(同上)

( 雑誌が売れなくなった理由はどこにあるのでしょうか。少子化も一原因でしょうが、他にあるようにも思われます。テレビの影響だとされますが、テレビもまた近年はまったく振るわなくなった。ネット時代の到来かとも考えたくなりますが、果たしてそうか。本を読むという良質の「ハビット」が生活から失われたのです。その理由は?)
児童のため、若者のためなどと、きりがないくらいに「~のため」の文化が根づいています、いました。若者と老人、男と女、既婚と未婚、…。でもいまや小・中・高・大といった「合言葉」の養成所は崩れつつあります。六歳は六歳だけの世界、十五歳は十五歳だけの狭く閉じこめられていた空間から人びとは解放されつつあるのです。背伸びをするのではなく、社会の根っこにある異なった世代やちがった性とまじわりあうことによる経験の蓄積こそ、ぼくたちの生きている社会(集団)の文化といえるのです。

流行りことばのようですが、「多様性」「多元性」というのは、一人の人間の中にある解放されてゆく広がりを指して言う言葉でもあるのです。その意味では、学校生活では。こどもたちは十分に解放されていません。理由はよくわかりませんが、違った学年同士が交わったりつきあったりするのもいけないといわれる。もちろん、他校の生徒とも。なぜ、という疑問に答えないで、教師たち(大人)は答無用を決め込んできました。これでは学校文化の大事な要素を損なっているというほかありません。何を恐れているのか。あるいはただ禁止しておきたいのか。
本は活字で書かれているばかりではない。活字で書かれているだけが本じゃないのだ。活字から離れなければ、もう一つの(もっと大事な)本が読めなくなるではないか。世界は「一冊の本」である。「空気」も、「他人」も、一つの本である。猫も犬も、鳥も虫も…、一冊の本だ。
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