何かハッとさせるような、おどろき

 「教」と「育」について(長田弘さんに触れた前回(「書かれた文字だけが本ではない」)のつづきです)

 「教育」に「教」ばかりがあって「育」がないと詩人の長田弘さんはいわれたことがあります。たしかに「教育」という言葉の構成からは「教」と「育」という二つの作用が重なって作られています。今これをよくよく見ると、二つの作用は狙う方向がちがうように思えてきます。いかがですか。「教わる」「教える」「教えられる」と「育つ」「育てる」「育てられる」、この二つは明らかに狙いも違うように思えてきます。(上の詩は「深呼吸の必要」から)

 二つの作用があるにもかかわらず、「教」ばかりがあって「育」がないといわれたのです。それこそが二十世紀の「教育」の姿(ありよう)だったのだと。さらに長田さんは、「教」としての教育が求めたのは「匿名の人間像」であり、それこそが二十世紀の教育の主人公になったといわれました。反対に、退けられてしまったのは「育」が求める「個人の人間像」だったと指摘されます。

 《「育てる」「育てられる」がいつか教育の意味をもたなくなって、社会になくなったものは未熟さというものに対する自覚です。そして、人びとのあいだに失われたのは、熟慮、熟達、熟練、習熟といったことを目安に、物事を測り、人間を測る習慣です。》(「教/育」)

 柿の実が赤く熟すにはさまざまな気候条件や成長過程が必要であるのとおなじように、ひとりの人間が成熟するには長い時間がかかります。未熟であることを自覚するとは、成熟への途上にあるということを確かめる目安にもなるのです。自分が未熟であることを自覚できないのは、いわば生き方の方向感覚をなくした状態だといっていいでしょう。ハンドルのない車のように危険きわまりない状態です。ひょっとしたしたらブレーキもないかもしれない。ハンドルもブレーキも備えていない車が走り回っているのだから、事故や事件が起こるのは当たり前の話ということになるのでしょうか。いや大丈夫だ、世は世は自動運転の時代なんだからというなら、さて、どうしますか。

 そして、時間をかけて物事を測り、人間を測る習慣に取って代わったのは「時間をかけないこと=FAST(かからないこと)」であり、「だれにでもわけなくできる=EASY」、そんなfast and easy lifeへの期待でした。簡便で便利な生き方(simple and easy way)が新たな目安になったんです。考えることも手間暇かけることも必要としない生き方が競って求められたのです。ワンコインで昼飯が手にはいるということは、自分で作ることをしなくなったということと同義です。カネで経験(実際に行うこと)を買う(失う)ことなんです。

 コンビニの出現は、この現象と無関係ではありません。ぼくはまずコンビニを利用しません。コンビニが生まれてからこの方、です。要するに、好きじゃないからです。どこが、と聞かれれば、どう答えましょうか。いろいろありますから、一言では言えない。まあ、このブログまがいに書かれているところを見れば、おおよその見当がつくでしょう。店員が嫌い、店構えが嫌だ、24時間営業はなんだか、というのではありません。「コンビニ」という形態は、さまざまな大切なものを削り取って、儲け第一主義(大資本家の)によって成り立ちます。ぼくがコンビニに入りたくないのは、削り取られたもの(その第一は「労働」の重要さ)を忘れたくないからです。でも世の中のほとんどがコンビニ流に特化してきました。いよいよ、ぼくは困っている。

 閑話休題 学校教育に委ねられたのは、自分で考え自分で行うという生き方ではなく、自分が未熟であるかどうかを自覚できないadult child(child adult)の大量生産でした。なにを学ぶのかを知らないでも、生徒は勉強させられている気になりなます。国語でも数学でも、大事なのは教えられたことを覚えるだけのこと。ここでも自分でする経験(考える・疑う)を「教えられる」ことによって失って(奪われて)いるんです。

 《 教育というのは、けれども、逆説的な力をもっています。容易であるべきものとしての教育が一人一人のうちにもたらしたものは、充足感とは逆のもの、すなわち、みずから何事かをなしたというhave doneという達成感の喪失です。/ 一人一人を日々の深いところで捉えているこの達成感のなさが、「教」を頼んで「育」を欠く今の世の、教育のありがたみのなさにほかならない、ということを考えます。達成感を得て、はじめてそれぞれのうちに確かなかたちをなしてゆくものが、個性です。》(同上) 

 「万人の為のマニュアル」「匿名の人間像」。いったいなぜ、これが二十世紀に強く求められたのでしょうか。逆に言えば、「個性のためのプログラム」「個人の人間像」はどうして退けられたのでしょうか。ぼくたちの課題が少しは見えてきたようですし、いまだにこの課題からぼくたちは解放されていません。「深呼吸の必要」を感じませんか。(もう少しこの部分を考えたい)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)