
《 つまらない書物というのはないが、つまらな読書というのはある。どんな書物でも、それを経験から知識にしてゆくのは読者の仕事であって、書物のせいなどではないからである。

同じように、つまらない教育者というのはないが、つまらない生徒というのはある。たとえ教師にソクラテスの英知とペスタロッチの手腕が兼備されていたとしても、生徒がうたた寝ばかりしていたとしたら、そこには「関係」は生まれて来ないだろう。教育の主体はあくまでも教師の人格や、テキストの問題で論じられるべきではなく、生徒との「関係」として、ドラマツルギーとして論じられるべきである。
北国の田の中の、一本の電柱にはられているビラ。その中に指名手配されている強盗殺人犯が(たとえマサカリで親を殺した極悪犯だとしても)、ときには教育者として、受けとられることもあり得る。生徒は陰惨な事件を通して、「家」の封建制がもたらす近親憎悪について学び、それを自分の日常生活に照応することで、教科書の一ページよりも濃く人生の本質を「読む」ことができるからである。

教育は与えるものではなく、受けとるものである、と思えば、人生いたるところに学校ありで、ゲームセンターにも競馬場にも、映画のスクリーンの中にも、歌謡曲の一節にも、教育者は、いるのである。だから、実生活に引用可能の知識を与えることで「体験のスペクトルを分析する」(W・ベンヤミン)教育は、それ自体では生きたものではないのであって、むしろそれらを生かしてゆこうとする生命力や好奇心は、野菜や肉によってつちかわれてゆくのだとさえ言うことができるだろう。私は、すぐれた教育技術者によって人間が作られてゆくという発想からは遠く離れて教育を考えている。よき対話者としての父もなければ、鑑とするだけの教師ともめぐりあわなかった。》(寺山修司)

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\
一読、いかにも気をてらっているような雰囲気を漂わせているのですが、なかなか韜晦な文章でもあると、ぼくは読んでいます。わかりやすいなあと思わせながら、どっこいそんなんじゃないよという、寺山氏の語り口が聞こえてきそうです。どんな書物からでも学べるし、どんな人からも教えられる。要するに、それを受け止める側の問題であるというのです。感受性といってもいいでしょう。誰でも、他者の教師にはなれるのだ。
生徒との関係として、教育(者)はとらえられなければならない、つまりは「ドラマツルギー」にこそ、教育の奥義があるのだという指摘に、その通りと膝を叩いてしまいます。かなり前に寺山さんを紹介しておきましたが、「すぐれた教育技術者によって人間が作られてゆく」という発想から離れたところから「教育」を考えるというところにも、ぼくは胸襟を開きたくなるような確信と核心と革新があるように思ったりしているのです。(何度かすれ違った気もしている寺山さん、彼が没して(1983年)、すでに四十年近くになるんですね)

〇寺山修司=詩人、歌人、劇作家、シナリオライター、映画監督。昭和10年12月10日青森県に生まれる。早稲田(わせだ)大学教育学部国文科中退。青森高校時代に俳句雑誌『牧羊神』を創刊、中村草田男(くさたお)らの知遇を得て1953年(昭和28)に全国学生俳句会議を組織。翌1954年早大に入学、『チェホフ祭』50首で『短歌研究』第2回新人賞を受賞、その若々しい叙情性と大胆な表現により大きな反響をよんだ。この年(1954)ネフローゼを発病。1959年谷川俊太郎(しゅんたろう)の勧めでラジオドラマを書き始め、1960年には篠田正浩(しのだまさひろ)監督『乾いた湖』のシナリオを担当、同年戯曲『血は立ったまま眠っている』が劇団四季で上演され、脱領域的な前衛芸術家として注目を浴びた。1967年から演劇実験室「天井桟敷(さじき)」を組織して旺盛(おうせい)な前衛劇活動を展開し続けたが、昭和58年5月4日47歳で死去。歌集に『空には本』(1958)、『血と麦』(1962)、放送の分野では『山姥(やまうば)』(1964。イタリア賞受賞)、『犬神の女』(1965。久保田万太郎賞受賞)、舞台の代表作に『青森県のせむし男』『毛皮のマリー』(ともに1967)、市街劇『人力飛行機ソロモン』(1970)、市街劇『ノック』(1975)、『奴婢訓(ぬひくん)』(1978)、映画監督作品に『田園に死す』(1974)など。多くの分野に前衛的秀作を残し、既成の価値にとらわれない生き方を貫いた。[大笹吉雄](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)
________________