我政界を爾来見る如き無道、無…

1956年の総裁公選における石橋湛山(72)、岸信介(60)、石井光次郎(67)

 昭和五年十一月、時の総理大臣・浜口雄幸が襲撃され、翌年八月に死去した際、石橋湛山は一文を認めます。

「浜口首相の遭難後、首相は意識を回復せられた際に、辞意を決し、辞表を捧呈すべきであった。然るに、之を為さず、偸安姑息を貪った為に、遂に、この大国難の際に、我政界を爾来見る如き無道、無議会の状態に陥れた。其の第一責任者は、何と云っても遭難直後に於て、挙措を誤った浜口首相に帰せねばならぬ。浜口氏の遭難は同情に堪えぬが、無道、無議会に陥れた罪悪に至っては、死後尚お鞭たるべき罪悪と云わねばなるまい」(「近来の世相ただ事ならず」(「東洋経済新報」昭和六年四月十八日号)

 翻って、湛山氏の辞任(辞職)について、大方は潔いという評価が下っていますが、それに異を唱える向きもあります。布施辰治弁護士のことを思い出します。(彼は金子ふみ子の弁護を引き受けた人でもあります)「潔く辞めたというが、無責任である。あろうことか、多大の協力をした石井光次郎ではなく、A級戦犯だった岸信介にバトンを渡すとはどういうことだ。ために国を誤ったではないか」という趣旨でした。僅か六十数日の「総理大臣」でした。無責任といわれるのも首肯できます。

 進退はむずかしいものです。なるときよりも辞めるときの方に「人物」がきっと出ます。何事によらず、長ければいいというものではありません。おのれのためにと、独尊大将が頑張れば、多くが迷惑を被る。

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〇石橋湛山=経済評論家、政治家。東京生まれ。早稲田(わせだ)大学文学部哲学科を卒業後、1911年(明治44)東洋経済新報社に入り、編集局長を経て1941年(昭和16)社長。東洋経済新報社は自由主義を編集の基本に据えていたため、社説を担当していた石橋もその立場から満州事変や五・一五事件を厳しく批判し、政府の軍国主義政策に反対した。第二次世界大戦前・戦中の石橋の主要な活動舞台は経済評論であった。井上準之助(いのうえじゅんのすけ)の財政緊縮政策に対して積極財政論を展開した「金解禁論争」は有名。戦後、自由党に入り、1946年(昭和21)総選挙に出馬したが落選。第一次吉田茂内閣の蔵相に就任し、生産復興第一主義を中心とした積極財政によってインフレ政策を推進。1947年衆院選で当選(静岡2区)したが公職追放となる。1951年の追放解除後、自由党に復帰するが、岸信介(きしのぶすけ)らと反吉田の新党運動をおこし除名され、1954年鳩山一郎(はとやまいちろう)総裁の日本民主党結成に参画し同党最高委員。同年吉田内閣退陣後、鳩山内閣で通産相。保守合同(自由民主党成立)の翌1956年12月鳩山後継総裁選挙で岸信介と争い総裁となり、石橋内閣を組閣。しかし肺炎のため十分に政策実施を行わないまま翌1957年2月わずか3か月で総辞職した。その後、中国、ソ連を訪問し、日ソ協会会長に就任するなど共産主義諸国との交流促進に活躍した。昭和48年4月25日死去、88歳。[荒 敬](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

〇浜口雄幸=1870-1931 大正-昭和時代前期の政治家。
明治3年4月1日生まれ。大蔵省から政界に転じ,大正2年立憲同志会に入党,4年衆議院議員(当選6回)。蔵相,内相をへて,昭和2年民政党の総裁となり,4年首相。緊縮政策と金解禁を断行したが,ロンドン海軍軍縮条約調印が,統帥権(とうすいけん)干犯として野党や軍部に攻撃された。5年11月14日東京駅で佐郷屋留雄に狙撃され,6年8月26日死去。62歳。土佐(高知県)出身。帝国大学卒。旧姓は水口。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)