世の中は新陳代謝、死も亦社会奉仕

死も亦社会奉仕 山県有朋公は、去一日、八十五歳で、なくなられた。先きに大隈侯を喪い、今又公を送る。維新の元勲の斯くて次第に去り行くは、寂しくも感ぜられる。併し先日大隈侯逝去の場合にも述べたが如く世の中は新陳代謝だ。急激にはあらず、而かも絶えざる、停滞せざる新陳代謝があって、初めて社会は健全な発達をする。人は適当の時期に去り行くのも、亦一の意義ある社会奉仕でなければならぬ。

 山公の操れる糸 殊に山県公は、大隈侯と違い、最後まで政治的に大なる力を振っていた。公よりすれば、それは国家を憂うる至誠の結果であったこと疑いない。当時も申述べたと記憶するが、かの宮中の某重大事件と称せらるるものの如きは、公は全く皇室を思い、国を思いてしたことと確信する。のみならず、其考えに、吾輩から見るに、決して間違ったものではなかった。併し如何に至誠から出で、如何に考えは正しくも、一人の者が、久しきに亙って絶大の権力を占むれば、弊害が出る。表面に踊る人形は変化するも、操る者が一人なれば、自然、踊りに新味は出ない。我政治が、とかく一定の範囲をぐるぐる回って、飛躍し得ざりし所以のものは、勿論種々の原因もあろうが、山公の引く糸に制限せられた為に由る所大なるを疑わない。引く人の意志に罪無くも、糸そのものに自然の弊害が伴った。(「小評論」大正十一年二月十一日)

 このように述べて、「山公の死は、此意味に於て我政界に一大転機を画すものである」と結論付けるのです。さらに「山公国葬反対」を述べていきます。その部分はいずれ機会を見て。

〇宮中某重大事件=1920年から21年にかけておこった皇太子迪宮裕仁(みちのみやひろひと)親王(昭和天皇)の妃決定をめぐる紛糾事件。1918年春,島津忠義の孫で久邇宮(くにのみや)邦彦王の長女良子(ながこ)が皇太子妃に内定し,翌年6月に正式の婚約が成立した。しかし元老山県有朋は,良子の母系の島津家に色盲遺伝があるとして,この婚約に反対を唱えた。山県は首相原敬と相談して,専門医師の調査書をもとに元老西園寺公望らとも協議の末,久邇宮家にやんわりと辞退を迫った。(世界大百科事典 第2版の解説)

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dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)