
「よく手を洗ったかどうか、先生は監視していますから、手を抜かないでね」手洗いソングまであるそうです。
「どうして学校ではただ読み書きを習うだけでなく、人々に手を洗わせるのでしょう」
「学校システムはまた、一から十まである種の司法権力を基盤にしています。そこではいつでも、罰し、誉め、評価し、分類し、誰が一番だとか、誰が一番駄目だとか言うのです。したがってそれは、司法権力を引き写した―その一般的役割を考慮しなければかなり恣意的な―司法権力です。なぜ、誰かに何かを教えるのに、罰したり誉めたりしなければならないのでしょう。このシステムは自明のように見えますが、よく考えてみればその自明性消えてしまいます」 (ミシェル・フーコー「真理と裁判形態」)
学校ってなんだろう?

いつもこんな疑問をいだいてきました。みなさんはどうですか。学校にはいろいろな役割・取り決めがあります。だから、たった一つの視点からながめて、それに批判を加えるのは賢明じゃないことはわかります。でも、フーコーもいうように学校というシステムの自明性は、じつは自明でもなんでもないということを知ることは大切じゃないかな。つまりそれは、「我々の日常茶飯事の行動を、我々がその意識を持たないままに規定している暗黙のシステムを理解する(受け入れる)」ことなんですね。だから、なんのための学校なのかって。
いろいろな人が、学校や教師の役割について、いろいろな表現をして説明(解説・批判)しています。このブログの最初の頃に紹介したジョン・ホルトは「教師は一人三役」で、裁判官・審判・監督を演じているといいました。なんとも絶大な力が付与されています。これはだれが許したのか、フーコーの説によれば、その権力は司法権力であり、どの子ができたりできなかったり、善人か悪人か、賞罰の授与権限さえ付与されているのです。多くの教師は自覚はあるのかないのか、その有無にかかわらず、宿題を出す、出来の良し悪しを判定する、いい子と悪い子を区別(選別)する権限を勝手に(当然のように)行使するのです。それで何の疑問を持たない。自身も子ども(親も)、ね。

それはおかしいねといえば、たちまち教師の魔力は消されてしまいます。成績や教師の評価を意に介しない生徒(子ども)には、教師はほとんどなすすべを持たないのがその証拠です。つくづく不思議な権力だと、ぼくには思われるのです。若いころにある校長さんが「実力のない教師ほど、宿題を出す」といいまして、ぼくはいたく感激したことを今もよく覚えています。九回で負けそうだから、もう一回と要求する野球チームのようでもあります。ルール違反じゃないか、というのですが、では教師はどんなルールに違反しているのか。
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