
山芋 大関松三郎 しんくしてほった土のそこから 大きな山芋をほじくりだす でてくる でてくる でっこい山芋 でこでこと太った指のあいだに しっかりと 土をにぎって どっしりと 重たい山芋 おお こうやって もってみると どれもこれも みんな百姓の手だ 土だらけで まっくろけ ふしくれだって ひげもくじゃ ぶきようでも ちからのいっぱいこもった手 これは まちがいない百姓の手だ つあつあの手 そっくりの山芋だ おれの手も こんなになるのかなあ
《一九三八(昭和十三)年、日中戦争がだんだん大きくなり、国民あげて戦争に熱中していたときに小学六年生が作った詩。驚くべきことだ。
「松三郎の目の鋭さは六年生になってぐっと肥え、力をつけました。その目は百姓の生活と、その暗い運命にむけられていった。それはまぎれもない自分の生活であり、運命だったのだ。貧しい者ほど、成長の準備期間は短い。それは下等動物や昆虫のように、短い時間に一人前の力をもたねばならないからだ。人間の場合は、くらしがそれを追いたてている。生活こそ人間を作るのだ。『山芋』の詩は、そういう生活の中から生まれてきた」と、寒川は指導記録で書いている」(佐藤国雄『「山びこ」「山芋」―人間教育の昭和史』)

寒川道夫。1909(明治42)年、新津市で生まれる。両親は小学校教師。長岡中卒業後、代用教員。その後、高田師範卒。一之貝小学校に赴任。すぐに黒条小に転勤。1931年9月のことでした。転勤は校長の画策だといいます。《寒川道夫は黒条小学校にきて、最初は五年生の担任だったが、教科書が『サクラ読本』にかわったその年の新学期から一年生の担任になった。「だれの手にもそまらないうちに君の手で育ててもらいたい」と校長はいった。その子らを六年生まで持ち上がり、その1人に大関松三郎がいた》(佐藤・同上) 大関松三郎は1926(大正6)年、古志郡黒条村下下条に小作農大関仁平次の三男として生まれる。10人兄弟。黒条尋常小学校で寒川道夫に出逢う。1941年、新潟鉄道教習所に入所。卒業後は機関助手になる。その後に海軍志願。1944年、南支那海で魚雷攻撃を受けて戦死。1951年、寒川は松三郎の詩を集め、詩集『山芋』として出版。

虫けら 大関松三郎 一くわ どしんとおろして ひっくりかえした土の中から もぞもぞと いろんな虫けらがでてくる 土の中にかくれて あんきにくらしていた虫けらが おれの一くわで たちまちおおさわぎだ おまえは くそ虫といわれ おまえは みみずといわれ おまえは へっこき虫といわれ おまえは げじげじといわれ おまえは ありごといわれ おまえらは 虫けらといわれ おれは 人間といわれ おれは 百姓といわれ おれは くわをもって 土をたがやさねばならん おれは おまえたちのうちをこわさねばならん おれは おまえたちの 大将でもないし、敵でもないが おれは おまえたちを けちらかしたり ころしたりする おれは こまった おれは くわをたてて考える だが虫けらよ やっぱりおれは土をたがやさんばならんでや おまえらを けちらかしていかんばならんでや なあ 虫けらや 虫けらや

「センチメンタリズムの一かけらもない現実的なきびしい思考は、これまでの感傷的な田園詩人たちの頭には到底宿り得なかった質のものだ。生活感情の中に、よほどの抵抗がなければ、こういう論理が抒情として生かされる筈がない。童心の詩ではない」(小野十三郎)
以前に紹介した「山びこ」の時代と前後します。教師の寒川道夫さんは後に(戦後)、無著成恭さんと、東京で出会います。明星学園で、でした。二人の関係は学校経営者として、現場の教師としていずれも互いに意識しながら、実践を重ねていきます。この時期(戦前・戦中)、寒川さんは新潟において、生活綴り方教育の一方の旗手として、重要な役割を果たしていました。また、そのことが「治安維持法違反」という犯罪につながる道を歩いていたことになります。(この項は続きます)
__________________________