


《 何百万の絶望した人々に、罪もなく迫害された人々に、と独裁者になりすました理髪師が訴えかける。<絶望してはならない…自由は滅びない>。映画史に刻まれるチャプリンの『独裁者』での六分間にも及ぶ演説は民主主義の側から独裁への抵抗を呼びかける▼ヒトラーと独裁政治を痛烈に風刺した映画は、製作された米国で、当時、絶賛一色だったかと思えば、そうではない。大野裕之さんの著書『チャップリンとヒトラー』によると、ヒトラーを英雄視する人もいて、批判や脅迫めいた声もあがったという▼撮影した時期、欧州ではナチスが猛威をふるっている。イタリアやソ連などにも独裁者が存在していて、さらに大きな覇権を握るかもしれなかった。戦後も、独裁者は消えていない。欧州では東欧で命脈を保つことになる▼「演説」から八十年が過ぎ、喜劇王の呼び掛けが欧州で現実に近づいているのかもしれない。「欧州最後の独裁者」といわれるベラルーシのルカシェンコ大統領に批判が強まっている。抗議デモが収まらない▼古今東西の独裁には、自国民の迫害と弾圧がつきものである。この人も対立候補を締め出し、弾圧してきたという。コロナ禍を機に、不満が噴出しているようだ▼<人々が強欲と憎しみと残虐さを克服したそんな世界へ…今、飛び始めた>。「演説」は言う。そんな世界が待っているといい。》(東京新聞・「筆洗」2020/08/20)

チャップリンとヒトラーは同い年だった。1889年4月。Cは16日生まれ、Hは20日生まれ。因縁を感じたかどうか、チャップリンは大いに「独裁者」を意識していた。映画は1940年に制作された。いつでも独裁者は生まれます。人民の心がそれを待望するからでしょう。民主主義から専制政治への道は一歩、いや半歩かもしれません。ぼくは政治には無頓着だし、関心をいだくということはほとんどありません。このブログみたい駄文では政治批判や権力批判のようなものがときに見られますが、なんでもありません。まるで目を開けて寝言を言っているようなもので、糠に釘を打っているんです。ぼくははっきりとそれを自覚しています。糠だな、釘だな、金づちだな、と。

チャップリンの権力批判は「真正面」からの正攻法でした。まるで無鉄砲そのものの危うささえ、ぼくは感じたほどです。でもかれは怯むことなく突き進んだ。彼の扮装はほとんどが「「小さな放浪者=The Little Tramp」でした。自伝には「流れ者、紳士、詩人、夢想家、孤独な人、いつも皆ロマンスと冒険に憧れてるんだ」といっています。いずれにしても時代や社会に対する強烈な批判や風刺、あるいは諧謔や揶揄、それも弱い、愚かとされている民衆の側から視点を得ていたのです。浜の真砂が尽きないように、世に独裁者は後を絶たない。民心の一隅に「待望感」があるのでしょう。誰彼の胸中にあるはずです。それとの闘い(格闘)がなければ、人は意識的な(意志からの)行為ができないのです。現下の、ぼくたちの「軽佻浮薄」そのものの政治状況からも「専制」や「独裁」は出現します、確実に。それを防ぐには。自由の意味を深く考えたい。
Dictators free themselves but they enslave the people.(チャップリンについては機会を設けて駄文を)
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