
残暑の厳しい折、季節は正反対の歌の話から。<雪よ岩よわれらが宿り-->の「雪山賛歌」である。アメリカの民謡「いとしのクレメンタイン」が元の歌だ。日本が戦争に負けた1945年8月の終わり、この歌の記憶が不意によみがえった人がいた▲「在日」として日本語で詩を書いてきた奈良県在住の詩人、金時鐘(キムシジョン)さん。日本に植民地支配された朝鮮半島で生まれ、学校では日本語の使用を強制された。敗戦からほどなくして思い出したのは、幼いころ、港で釣り糸を垂れる父の膝で一緒に朝鮮語で歌った「いとしのクレメンタイン」だ▲<ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)ナエサラン クレメンタイン(わがいとしの クレメンタインよ)>。日本の勝利を信じる「皇国少年」だった。敗戦直後は涙に暮れて海辺で「海行かば」を口ずさんだ。だが、父の歌が「私に朝鮮をよみがえらせた」(著書「『在日』のはざまで」)という▲母国語を奪われた朝鮮の人々は日本の支配からの解放をどれほど喜んだことだろう。しかし故国は米ソの対立によって南北に分断される。日本でも、同じ朝鮮人なのに南か北かで対立を強いられた▲南北は融和に向けて動き出そうとしている。半島の非核化の進展に日本から注目が集まるのも当然だ。だが金さんのように半島の悲劇の歴史に翻弄(ほんろう)された在日コリアンがいることも忘れずにいたい▲夏が過ぎれば父の命日が訪れる。この時期、金さんは「(心の)うずきがぶり返す」と記している。(毎日新聞2018年8月25日 東京朝刊)
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ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ) ナエサラン クレメンタイン(わがいとしのクレメンタインよ)
ヌルグンエビ ホンジャトゴ(老いた父ひとりにして) ヨンヨン アジョ カッヌニャ(おまえは本当に去ったのか)
広い海辺に苫屋ひとつ、 漁師の父と年端もいかぬ娘がいた。
おお愛よ、愛よ、わがいとしのクレメンタインよ、 老いた父ひとりにしておまえは本当に去ったのか

それは風の強い朝のことだった。 母を捜すのだといって渚にでたが、
おまえはとうとう帰ってはこない。 おお愛よ、愛よ、わがいとしのクレメンタインよ、
老いた父ひとりにしておまえは本当に去ったのか。 (金 時鐘「クレメンタインの歌」)
金さんがこの「クレメンタインの歌」を書かれたのは1979年4月のことでした。以来、四十年が経過しましたが、いつの時代にも人それぞれの「クレメンタインの歌」が唄われたことだと思います。
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この歌自体には長い歴史が刻まれています。原曲は1863年、H. T. Thompsonが作った「Down by the river lived a maiden」。ついで、Percy Montrossが80年に作曲した「Oh My Darling Clementine」によって人口に膾炙するようになりました。ちなみに、トンプソンは曲の舞台をゴールドラッシュ時代の鉱山に求めたのでした。

また、1946年に公開された「荒野の決闘」(My Darling Clementine)で、この歌が映画の主題歌として用いられ、いっそう多くの人に知れわたることになりました。ジョン・フォード監督。「OK牧場の決闘」をクライマックスに、伝説の保安官ワイアット・アープと、鉱夫の娘クレメンタインとの恋を描いた映画。主演はジョン・フォード。
その曲を旧制第三高等学校の山岳部の歌として、西堀栄三郎たちが作り替えたのが「雪山賛歌」でした。西堀栄三郎さん(1903~1990)は日本山岳協会会長を務め、1957年の第一次南極越冬隊の隊長を務めた人。その後、原研理事など。京都大学教授。
西堀さんの『未知なる山・未知なる極地』(悠々社)によると、大正15年の冬の鹿沢。

《 合宿が終って新鹿沢に泊まった。吹雪で滞在をよぎなくされたある日、四手井綱彦君や渡辺漸君と共に学校の山岳部の歌をつくろうではないかと提案した。しかし、わたしを始めこの連中は、およそ文才のない奴ばかりである。別に誰にほめてもらおうというわけではないので、でたらめな文句をならべたてた。その頃ラッセルをやりながらよく歌った「オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン」 の曲が気に入っていたので、その曲にあうように。誰がどの文句をつくったかは忘れてしまったが、どれも合作であったようだ。薄暗い部屋で、四手井君が一句一句できるはしから書き留めていたのを思い出す 》
「いとしのクレメンタイン」は外国人教師が三高の英語の時間に教えてくれたものらしいのです。山岳部のなかで歌い継がれていたのがいつしか「雪山賛歌」として世に歌われだしたようです。よく似たケースとして三校のボート部の歌に「琵琶湖就航の歌」があり、それはいまに歌われていますね。

歌が主役のような物語がたくさんあります。また物語の登場人物の一人ひとりにも汲みつくせない歴史があります。この「クレメンタインの歌」にも言い知れぬ思いが込められた物語があるということを、ぼくは若い頃に知って、その歴史をたどってみたいと念願していました。金時鐘さんに出会ったのも、この歌がきっかけだったといってもいい。
いつか「和解」しあえる時が来るのかどうか。国というものは実に厄介な存在です。政府があり、官僚があり、政治家が蝟集し、民衆もおのれの感覚を有しています。それぞれが同じ方向を向くということはあり得ないし、それぞれが勝手気ままにおのれの主張を声高に叫ぶ、隣あっているだけに、このような事態を放置していること自体が許されないと、ぼくは素朴に思うのです。クレメンタインの歌は、誰のものでもなく、それぞれが自らの音調や音階で歌ってきたものですが、いつか重なりある時が、あるいは合唱される時が来るのかもしれない。その日の到来を今や遅しと、ぼくは待望しているのです。(つづく)
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