教育による日本人の洗脳だった

 「文部大臣、二人」、今は昔の物語

 《 私は中教審に関係して以来、十八年、会長をつとめてからも、もう八年になります。この二十年近い間にはいろいろな出来事や思い出があるのですが、これらの経験の中で、このたびの審議ほどわが国教育の全体にかかわる基本的な課題に真向から取り組んだことはかつてありませんでした。戦後の教育改革を実行する最初の責任者であった私にとっては、とくに感慨深いものがあります 》(森戸辰男『教育委員会月報』1971/6月号)

 森戸辰男さんは戦後に社会党の代議士となり、片山・芦田内閣時代に文部大臣を務め(1947/6~48/10)、戦後教育の出発にあたって、新制中学・高校・大学の発足に深く関わり、教育委員会法制定にも尽力した。まさに「戦後の教育改革を実行する最初の責任者であった」。この感慨をもらした71年の中教審答申は明治維新以来「第三の教育改革」と称されて、その後の一連の「教育改革」路線の方向を決定づけるものでした。

 《 占領国の意図は、教育による日本人の洗脳だった、と私は思う。しかし、教育にはその国の国柄に即した伝統というものがどうしても必要なのだ。その伝統を無視して、アメリカ式の民主主義教育を押しつけられた 》(同上)

 その五年前の66年の中教審答申には「期待される人間像」が付記されていました。その時の会長も森戸さん。そこには、今につながる「伝統への回帰」「日本民族の主体性回復」を執拗に訴えるものがありました。

 《 戦後の教育改革は敗戦・占領の下で行われた。かような事情のもとで、外国の、とりわけ戦勝国の文物制度がとうとうと導入されるとともに、敗戦による虚脱状態にあった国民の、祖国とその伝統に対する誇りと愛情が弱まった。おまけに、占領軍は民主主義の名の下に、善意ではあったにしても、日本国民の伝統を中断しようと試みたことも否めない。かような情勢のもとに、戦後の教育は教科書の教育には力を入れたけれども、戦後教育の核心であるべき人間形成と日本民族の主体性を確立することは、むしろなおざりにされた 》

 森戸辰男という人物の戦前・戦中・戦後の軌跡を透視することは、大きな社会風潮の流れを知るうえでも興味のあることですが、ここでは触れません。

 もう一人の人物を紹介しておきます。敗戦時の文部大臣(在任期間・45/8/18~46/1/13)であった前田多門です。新渡戸稲造につながる明治生まれのリベラリストで、森戸以上に戦後の「教育改革」に明確な道筋をつけた人と評価されます。この時期、彼にとっては「日本的民主主義」の徹底ということが最大の関心事であった。それはまた、森戸さんが言われた「戦後教育の核心であるべき人間形成と日本民族の主体性」という課題でもあった。1945年10月15日の時点で、「益々国体の護持に努むる」一念を強調しながら、前田文部大臣は「日本的民主主義」について次のように述べた。

 《 所謂民主主義政治とは決して君主政治主義の反対語なるものではなく、貴族政治や立憲政治に対するものであって、ギリシヤ語のデモスの政治即ち民衆一般の政治、換言すれば民衆が責任を以てする政治であり、畏くも皇室を上に戴き民衆が政治に関与し、その政府は「権力」と云ふよりはむしろ「奉仕」に重きを置くこれ日本的なる民主主義政治の特徴である》《畏くも上御一人に於かせられましては「常に爾臣民と共にあり」と仰せられて居ります。この有難い大御心を拝し、吾等はほんとうに一つ心になって、此難局を切抜けて理想の彼岸に達したい》《我が国の教育は我政府の手によって又各位の手によって、自発的に先手先手と刷新改良を加えて参る必要があります 》(文部省『終戦教育事務処理提要』第一、1945/11))

 前田多門に関してはいずれ後に、もう少し触れることかあるかもしれません。

 「戦後民主主義」ということがしばしばいわれましたが、前田氏がいうような「日本的民主主義」もまた、一貫して唱えられてきたのです。この両者は反発しながらも、どこかで重なる性格のものであったのかもしれないと思われてきます。「ポツダム宣言」には「日本国国民の間における民主主義的傾向」が「復活強化」されるべきことが記されていました。素直に読めば、いずれかの時代に日本においては「民主主義」が存在したのであって、それを復活し強化することが必要だといっているようです。いずれかの時代とは、江戸時代でもなければ明治時代でもなく、大正時代のことを指すと考えるのはまちがいない。いわゆる〈大正デモクラシー〉がそれでした。〈大正自由主義〉とも称された、この時期についてもいずれ触れてみようと思います。

 森戸と前田という二人の人物を挙げましたが、この両者は思想的にも行動的にも、大正時代から戦中にかけては両極に位置していました。一方は自由主義思想の持ち主であり、他方は社会主義者のそれという具合に。そして敗戦という「未曾有の出来事」が、両極を束ねることまでしたという観点から考えてみると、戦後教育改革というものの性格や特徴が読みとれるのではないか、私はそのように考えています。

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〇森戸辰男=1888-1984 大正-昭和時代の社会学者,政治家。明治21年12月23日生まれ。母校東京帝大の助教授となるが,論文「クロポトキンの社会思想の研究」が問題とされ大正9年辞職(森戸事件),大原社会問題研究所にはいる。昭和21年衆議院議員(当選3回,社会党)。片山・芦田両内閣の文相。のち広島大学長,中央教育審議会会長。46年文化功労者。昭和59年5月28日死去。95歳。広島県出身。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

〇前田多門=生年明治17(1884)年5月11日 没年昭和37(1962)年6月4日 出生地大阪 学歴〔年〕東京帝大法科大学独法科〔明治42年〕卒 経歴明治42年内務省に入り、都市計画課課長などを経て、大正9年東京市第三助役、11年東京市政調査会を設立。12年ILO政府代表としてジュネーブへ。昭和3年朝日新聞論説委員。13年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、18年新潟県知事など歴任。20年貴院議員となり、東久邇内閣の文相に就任。幣原内閣でも留任し、異色の人材を起用し教育改革を推進するが公職追放となり、東京通信工業(現・ソニー)社長に就任。その後、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長などを歴任した。著書に「国際労働」「地方自治の話」「アメリカ人の日本把握」など。(20世紀日本人名事典の解説)

 「教育」における不易と流行というものがあるんですかね。「時は永遠の鏡である」といった思想家がいました。いついかなる時にも「永遠が存在している」という意味でしょう。今日では文部省(文部科学省)の大臣も枯葉のように薄く軽くなりました。それにはいくつかの事情もあるのでしょうが、あらゆる局面で人物・人材を得ないというのは、教育の問題に尽きるとまでは言えないにしても、学校教育の責任は重大なものがありそうです。でも、戦後の一時期には、それなりに大きな仕事をなした人材が大臣の椅子に座っていたという歴史事実を知るだけでも、「豊かな時代」というものがどんなにいい加減で、それは人間の成長を腐敗・堕落させるものであるという一例にはなるでしょう。

 また、敗戦直後、「文部省」は内務省やその他の官庁と同様に「解体」寸前まで行きました。それがどうして解体されなかったか、確かな理由がありますが、ここでは触れない。ぼくは、今からでも遅くないから「解体されるべき・する」であると考えています。これを逃したのはたいへんな「汚点」となって今に響いています。 (この項、あるいは人物についてはまた触れることがあるかも)(右は旧内務省、のちの警視庁庁舎・通称「桜田門」跡)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです