「教育」はつねに改革の最中です

 「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と正義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」(「日本国憲法前文」)

 「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」(改定前の「教育基本法前文」)

 「民主主義は国民各人が自ら考へ自ら判断して正しいと信ずるところを行ふことを要求する。教育においても、生徒にこのやうな独立的生活態度を養はねばならぬ。権力や命令によつて強制せられた訓練は、外面上おとなしく、すなほに見える人間をつくるけれども、その実は卑屈で無気力な人間をつくる。これまでの日本の軍隊教育やそれにならつて行はれた戦時の国民訓練は、どんな結果を生んだであらうか。戦局の不利にともなつて道義がおとろへ、敗戦によつて規律がみだれ、軍人の中にも国民の中にも、恥づべき行ひをした者が多かつたのは、もともとかれらが外からの力にやむを得ずしたがつてゐたのであつて、自ら正しい道を求め自ら責任をもつて行動するといふ態度を訓練されてゐなかつたからである」(文部省「新教育指針」昭和二十一年五月十五日)

 いま、その憲法改正が政治日程に上って久しく、ある勢力は今にも「改正だ」と意気込んでいる。このことに関して様々な意見があることは認めます。憲法だから、それはぜったいに「改正」してはならないという立場にぼくは立ちません。ただ、いまある憲法や基本法がどのような経緯をへて制定されたのかをていねいに見なければ判断を誤ることになるといいたいだけですね。また、国のかたちをけて末う憲法を変えることはそれ自体は内政問題であるのは事実ですが、それに加えて、近隣諸国との関係を全く無視することはできないとも言えます。事あるごとに、それぞれが「内政干渉」であるというだけでは、有効な関係は成り立たないからです。隣り合う二軒三軒の私人宅の場合でもそうです。

 深夜にやたらに大声をあげて、筒抜けになっているようなとき、うるさくて眠れないとか、もう少し近所の事を考えろと言われた家は、「家庭内問題」だからっごちゃごちゃ言うなといって、済ませられないでしょうし、時には警察沙汰になることもあります。警察も、これまでは民事不介入を決め込んでいましたが、事件が起こってからでは責任だけを問われるという事態に遭遇したこともあり、しばしば「介入」してきます。それぞれが勝手なことをしていては、社会生活は成り立たないという話です。それだけです。

 「戦後教育改革」ということについても、基本的には同じことです。学校教育の現状には問題がある、だからこのように改革しなければならないという風潮が蔓延しています。どうしていまあるような学校教育がつくられたのかという視点は、今日こそ欠かせないのではないでしょうか。改革は学校に任せなさいという人もいれば、文部省問題だから、他はかまうなという役所もある。また、「教育は国家百年の計」だから、我々に任せろと、やかましい声が外野から飛んできます。

 敗戦後しばらくして、「戦後民主主義は虚妄だ」という声が大きく上がりました。それに対してある政治学者は、次のように言いました。「虚妄論争」の勃発です。今も続いています。学校教育界も問題視されたのです。

 《 日本は負けてよかったのか。それとも負けない方がよかったのか。戦後民主主義の「虚妄」をそれだけわめくものは、この問いに答える責任がある。戦前の日本帝国は「虚妄」でなくて「実在」だとでもいうのか。それなら私は日本帝国の実在よりもむしろ日本民主主義の虚妄をえらぶ 》(丸山真男『増補版現代政治の思想と行動』)

 「戦後民主主義」あるいは「平和と民主主義」ということが、「敗戦後」一貫していわれつづけてきました。ある場合には、揶揄や嘲笑を含んだ言い草として使われてきました。「戦後民主主義」というのは、いつでもどこでも通用する表現ではありません。この島社会に独特の歴史上の画期を以て使われだした言葉です。その意味は、それだけ「平和」や「民主主義」が現実には根づかなかったということにもなるでしょう。「戦後」の歴史が長く経過するにしたがって、その感が強くなります。

 すべてをコロナ禍のせいにするわけにはいきませんが、今春からの学校教育はどのような事態に陥っているのでしょうか。コロナ問題も人災の要素は濃厚でありますが、学校の一斉休校や各自治体・各学校当局の自主性・責任性のなさから生じた対応のまずさも、それぞれの関係者の無能によって引き起こされた人災であるといわなければなりません。先行きの見通しをだれが立てるのか、誰かに先導されなければ、一歩も先に進めないようでは、この先真っ暗というばかりです。子どもは未来であるというなら、それを現実のものにする方策を描くのもまた学校関係者の責任であるはずです。

 今こそ、筋の通った、子どもに寄り添う教育が実践される可能性が見えているのですから。

______________________________________________

 教育による日本人の洗脳だった

 「文部大臣、二人」、今は昔の物語

 《 私は中教審に関係して以来、十八年、会長をつとめてからも、もう八年になります。この二十年近い間にはいろいろな出来事や思い出があるのですが、これらの経験の中で、このたびの審議ほどわが国教育の全体にかかわる基本的な課題に真向から取り組んだことはかつてありませんでした。戦後の教育改革を実行する最初の責任者であった私にとっては、とくに感慨深いものがあります 》(森戸辰男『教育委員会月報』1971/6月号)

 森戸辰男さんは戦後に社会党の代議士となり、片山・芦田内閣時代に文部大臣を務め(1947/6~48/10)、戦後教育の出発にあたって、新制中学・高校・大学の発足に深く関わり、教育委員会法制定にも尽力した。まさに「戦後の教育改革を実行する最初の責任者であった」。この感慨をもらした71年の中教審答申は明治維新以来「第三の教育改革」と称されて、その後の一連の「教育改革」路線の方向を決定づけるものでした。

 《 占領国の意図は、教育による日本人の洗脳だった、と私は思う。しかし、教育にはその国の国柄に即した伝統というものがどうしても必要なのだ。その伝統を無視して、アメリカ式の民主主義教育を押しつけられた 》(同上)

 その五年前の66年の中教審答申には「期待される人間像」が付記されていました。その時の会長も森戸さん。そこには、今につながる「伝統への回帰」「日本民族の主体性回復」を執拗に訴えるものがありました。

 《 戦後の教育改革は敗戦・占領の下で行われた。かような事情のもとで、外国の、とりわけ戦勝国の文物制度がとうとうと導入されるとともに、敗戦による虚脱状態にあった国民の、祖国とその伝統に対する誇りと愛情が弱まった。おまけに、占領軍は民主主義の名の下に、善意ではあったにしても、日本国民の伝統を中断しようと試みたことも否めない。かような情勢のもとに、戦後の教育は教科書の教育には力を入れたけれども、戦後教育の核心であるべき人間形成と日本民族の主体性を確立することは、むしろなおざりにされた 》

 森戸辰男という人物の戦前・戦中・戦後の軌跡を透視することは、大きな社会風潮の流れを知るうえでも興味のあることですが、ここでは触れません。

 もう一人の人物を紹介しておきます。敗戦時の文部大臣(在任期間・45/8/18~46/1/13)であった前田多門です。新渡戸稲造につながる明治生まれのリベラリストで、森戸以上に戦後の「教育改革」に明確な道筋をつけた人と評価されます。この時期、彼にとっては「日本的民主主義」の徹底ということが最大の関心事であった。それはまた、森戸さんが言われた「戦後教育の核心であるべき人間形成と日本民族の主体性」という課題でもあった。1945年10月15日の時点で、「益々国体の護持に努むる」一念を強調しながら、前田文部大臣は「日本的民主主義」について次のように述べた。

 《 所謂民主主義政治とは決して君主政治主義の反対語なるものではなく、貴族政治や立憲政治に対するものであって、ギリシヤ語のデモスの政治即ち民衆一般の政治、換言すれば民衆が責任を以てする政治であり、畏くも皇室を上に戴き民衆が政治に関与し、その政府は「権力」と云ふよりはむしろ「奉仕」に重きを置くこれ日本的なる民主主義政治の特徴である》《畏くも上御一人に於かせられましては「常に爾臣民と共にあり」と仰せられて居ります。この有難い大御心を拝し、吾等はほんとうに一つ心になって、此難局を切抜けて理想の彼岸に達したい》《我が国の教育は我政府の手によって又各位の手によって、自発的に先手先手と刷新改良を加えて参る必要があります 》(文部省『終戦教育事務処理提要』第一、1945/11))

 前田多門に関してはいずれ後に、もう少し触れることかあるかもしれません。

 「戦後民主主義」ということがしばしばいわれましたが、前田氏がいうような「日本的民主主義」もまた、一貫して唱えられてきたのです。この両者は反発しながらも、どこかで重なる性格のものであったのかもしれないと思われてきます。「ポツダム宣言」には「日本国国民の間における民主主義的傾向」が「復活強化」されるべきことが記されていました。素直に読めば、いずれかの時代に日本においては「民主主義」が存在したのであって、それを復活し強化することが必要だといっているようです。いずれかの時代とは、江戸時代でもなければ明治時代でもなく、大正時代のことを指すと考えるのはまちがいない。いわゆる〈大正デモクラシー〉がそれでした。〈大正自由主義〉とも称された、この時期についてもいずれ触れてみようと思います。

 森戸と前田という二人の人物を挙げましたが、この両者は思想的にも行動的にも、大正時代から戦中にかけては両極に位置していました。一方は自由主義思想の持ち主であり、他方は社会主義者のそれという具合に。そして敗戦という「未曾有の出来事」が、両極を束ねることまでしたという観点から考えてみると、戦後教育改革というものの性格や特徴が読みとれるのではないか、私はそのように考えています。

<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<

〇森戸辰男=1888-1984 大正-昭和時代の社会学者,政治家。明治21年12月23日生まれ。母校東京帝大の助教授となるが,論文「クロポトキンの社会思想の研究」が問題とされ大正9年辞職(森戸事件),大原社会問題研究所にはいる。昭和21年衆議院議員(当選3回,社会党)。片山・芦田両内閣の文相。のち広島大学長,中央教育審議会会長。46年文化功労者。昭和59年5月28日死去。95歳。広島県出身。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

〇前田多門=生年明治17(1884)年5月11日 没年昭和37(1962)年6月4日 出生地大阪 学歴〔年〕東京帝大法科大学独法科〔明治42年〕卒 経歴明治42年内務省に入り、都市計画課課長などを経て、大正9年東京市第三助役、11年東京市政調査会を設立。12年ILO政府代表としてジュネーブへ。昭和3年朝日新聞論説委員。13年退社後はニューヨークの日本文化会館館長、18年新潟県知事など歴任。20年貴院議員となり、東久邇内閣の文相に就任。幣原内閣でも留任し、異色の人材を起用し教育改革を推進するが公職追放となり、東京通信工業(現・ソニー)社長に就任。その後、日本育英会、日本ユネスコ国内委員会、日本ILO協会各会長、公明選挙連盟理事長などを歴任した。著書に「国際労働」「地方自治の話」「アメリカ人の日本把握」など。(20世紀日本人名事典の解説)

 「教育」における不易と流行というものがあるんですかね。「時は永遠の鏡である」といった思想家がいました。いついかなる時にも「永遠が存在している」という意味でしょう。今日では文部省(文部科学省)の大臣も枯葉のように薄く軽くなりました。それにはいくつかの事情もあるのでしょうが、あらゆる局面で人物・人材を得ないというのは、教育の問題に尽きるとまでは言えないにしても、学校教育の責任は重大なものがありそうです。でも、戦後の一時期には、それなりに大きな仕事をなした人材が大臣の椅子に座っていたという歴史事実を知るだけでも、「豊かな時代」というものがどんなにいい加減で、それは人間の成長を腐敗・堕落させるものであるという一例にはなるでしょう。

 また、敗戦直後、「文部省」は内務省やその他の官庁と同様に「解体」寸前まで行きました。それがどうして解体されなかったか、確かな理由がありますが、ここでは触れない。ぼくは、今からでも遅くないから「解体されるべき・する」であると考えています。これを逃したのはたいへんな「汚点」となって今に響いています。 (この項、あるいは人物についてはまた触れることがあるかも)(右は旧内務省、のちの警視庁庁舎・通称「桜田門」跡)

_______________________________________

 老いた父ひとりにしておまえは…

残暑の厳しい折、季節は正反対の歌の話から。<雪よ岩よわれらが宿り-->の「雪山賛歌」である。アメリカの民謡「いとしのクレメンタイン」が元の歌だ。日本が戦争に負けた1945年8月の終わり、この歌の記憶が不意によみがえった人がいた▲「在日」として日本語で詩を書いてきた奈良県在住の詩人、金時鐘(キムシジョン)さん。日本に植民地支配された朝鮮半島で生まれ、学校では日本語の使用を強制された。敗戦からほどなくして思い出したのは、幼いころ、港で釣り糸を垂れる父の膝で一緒に朝鮮語で歌った「いとしのクレメンタイン」だ▲<ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ)ナエサラン クレメンタイン(わがいとしの クレメンタインよ)>。日本の勝利を信じる「皇国少年」だった。敗戦直後は涙に暮れて海辺で「海行かば」を口ずさんだ。だが、父の歌が「私に朝鮮をよみがえらせた」(著書「『在日』のはざまで」)という▲母国語を奪われた朝鮮の人々は日本の支配からの解放をどれほど喜んだことだろう。しかし故国は米ソの対立によって南北に分断される。日本でも、同じ朝鮮人なのに南か北かで対立を強いられた▲南北は融和に向けて動き出そうとしている。半島の非核化の進展に日本から注目が集まるのも当然だ。だが金さんのように半島の悲劇の歴史に翻弄(ほんろう)された在日コリアンがいることも忘れずにいたい▲夏が過ぎれば父の命日が訪れる。この時期、金さんは「(心の)うずきがぶり返す」と記している。(毎日新聞2018年8月25日 東京朝刊)

LLLLLLLLLLLLLLLLLL

ネサランア ネサランア(おお愛よ、愛よ) ナエサラン クレメンタイン(わがいとしのクレメンタインよ)

ヌルグンエビ ホンジャトゴ(老いた父ひとりにして) ヨンヨン アジョ カッヌニャ(おまえは本当に去ったのか)

広い海辺に苫屋ひとつ、 漁師の父と年端もいかぬ娘がいた。

おお愛よ、愛よ、わがいとしのクレメンタインよ、 老いた父ひとりにしておまえは本当に去ったのか

それは風の強い朝のことだった。 母を捜すのだといって渚にでたが、

おまえはとうとう帰ってはこない。 おお愛よ、愛よ、わがいとしのクレメンタインよ、

老いた父ひとりにしておまえは本当に去ったのか。   (金 時鐘「クレメンタインの歌」)

 金さんがこの「クレメンタインの歌」を書かれたのは1979年4月のことでした。以来、四十年が経過しましたが、いつの時代にも人それぞれの「クレメンタインの歌」が唄われたことだと思います。

+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 この歌自体には長い歴史が刻まれています。原曲は1863年、H. T. Thompsonが作った「Down by the river lived a maiden」。ついで、Percy Montrossが80年に作曲した「Oh My Darling Clementine」によって人口に膾炙するようになりました。ちなみに、トンプソンは曲の舞台をゴールドラッシュ時代の鉱山に求めたのでした。

 また、1946年に公開された「荒野の決闘」(My Darling Clementine)で、この歌が映画の主題歌として用いられ、いっそう多くの人に知れわたることになりました。ジョン・フォード監督。「OK牧場の決闘」をクライマックスに、伝説の保安官ワイアット・アープと、鉱夫の娘クレメンタインとの恋を描いた映画。主演はジョン・フォード。

 その曲を旧制第三高等学校の山岳部の歌として、西堀栄三郎たちが作り替えたのが「雪山賛歌」でした。西堀栄三郎さん(1903~1990)は日本山岳協会会長を務め、1957年の第一次南極越冬隊の隊長を務めた人。その後、原研理事など。京都大学教授。

 西堀さんの『未知なる山・未知なる極地』(悠々社)によると、大正15年の冬の鹿沢。

 《 合宿が終って新鹿沢に泊まった。吹雪で滞在をよぎなくされたある日、四手井綱彦君や渡辺漸君と共に学校の山岳部の歌をつくろうではないかと提案した。しかし、わたしを始めこの連中は、およそ文才のない奴ばかりである。別に誰にほめてもらおうというわけではないので、でたらめな文句をならべたてた。その頃ラッセルをやりながらよく歌った「オー・マイ・ダーリン・クレメンタイン」 の曲が気に入っていたので、その曲にあうように。誰がどの文句をつくったかは忘れてしまったが、どれも合作であったようだ。薄暗い部屋で、四手井君が一句一句できるはしから書き留めていたのを思い出す 》

 「いとしのクレメンタイン」は外国人教師が三高の英語の時間に教えてくれたものらしいのです。山岳部のなかで歌い継がれていたのがいつしか「雪山賛歌」として世に歌われだしたようです。よく似たケースとして三校のボート部の歌に「琵琶湖就航の歌」があり、それはいまに歌われていますね。

 歌が主役のような物語がたくさんあります。また物語の登場人物の一人ひとりにも汲みつくせない歴史があります。この「クレメンタインの歌」にも言い知れぬ思いが込められた物語があるということを、ぼくは若い頃に知って、その歴史をたどってみたいと念願していました。金時鐘さんに出会ったのも、この歌がきっかけだったといってもいい。

 いつか「和解」しあえる時が来るのかどうか。国というものは実に厄介な存在です。政府があり、官僚があり、政治家が蝟集し、民衆もおのれの感覚を有しています。それぞれが同じ方向を向くということはあり得ないし、それぞれが勝手気ままにおのれの主張を声高に叫ぶ、隣あっているだけに、このような事態を放置していること自体が許されないと、ぼくは素朴に思うのです。クレメンタインの歌は、誰のものでもなく、それぞれが自らの音調や音階で歌ってきたものですが、いつか重なりある時が、あるいは合唱される時が来るのかもしれない。その日の到来を今や遅しと、ぼくは待望しているのです。(つづく)

_____________________________________________________________