拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ

教育勅語は、総理大臣山県有朋と芳川文相の責任のもとに起草が進められた。最初は徳育に関する箴言を編纂する方針であったが、やがて勅語の形をとることとなった。起草について、はじめ中村正直に草案を委託したようであるが、その後当時法制局長官であった井上毅の起草した原案を中心として、当時枢密顧問官であった元田永孚が協力し、幾度か修正を重ねて最終案文が成立したものであるとされている。勅語の起草に参与した元田永孚は勅語発布後に、山県総理大臣にあてた書簡において当時の有様と勅語発布の意義を次のように述べている。
 「回顧スレハ維新以来教育之主旨定まらす国民之方向殆ント支離滅裂二至らんとするも幸二 聖天子叡旨之在ル所と諸君子保護之力とを以扶植匡正今日二至リタル処未夕確定之明示あらさるより方針二迷ふ者不少然ルニ今般之勅諭二而教育之大旨即チ国民之主眼ヲ明示せられ之ヲ古今二通し而不謬之ヲ中外二施して不悖実二天下万世無窮之皇極と云へし彼ノ不磨之憲法之如キモ時世二因而者修正を加へサルヲ不得も此ノ 大旨二於テは亘於万世而不可復易一字矣」
 明治二十三年十月三十日、明治天皇は山県総理大臣と芳川文相を官中に召して教育に関する勅語を下賜された。これによって国民道徳および国民教育の根本理念が明示され、それまでの徳育論争に一つの明確な方向が与えられたのである。(Wikipedia」

<戦後75年>教育勅語からの脱却 「子どものための国」に (東京新聞「社説」・2020年8月13日 07時09分)

…戦後七十五年とは別の「節目」から教育を考えてみたいと思います。今年は、明治政府が一八九〇年に教育勅語を発布してから百三十年となります。

 教育勅語は、天皇が臣民に道徳を諭す体裁をとっています。一九四五年の敗戦まで教育の基本方針として強い影響力を持ち続けました。(中略)

←(東京新聞・2017年04月04日)

 戦後の民主主義体制の中で教育制度を再出発させるにあたり、衆参両院は一九四八年に勅語の失効・無効を確認する決議を採択しました。

 しかし、掲げられた徳目については普遍的とする再評価の動きは戦後、繰り返されてきました。政府は二〇一七年に「学校で、憲法や教育基本法等に反しない形で教材として用いることまでは否定されない」との答弁書を決定しています。(中略)

 短い夏休みに象徴されるように学校は大変な状況です。新型コロナウイルスの感染拡大は収まらず学びの保障が危ぶまれます。しかし光が見えていないわけではありません。

 今春の全国一斉休校でオンライン授業が注目され、パソコンなどの一人一台配備は前倒しで進められる予定です。オンライン授業を取り入れた学校では、不登校だった子も参加したとの事例も生まれているようです。

◆学びの危機だからこそ(中略)

 子どものため国に何ができるかが、問われていると感じる戦後七十五年の夏です。

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 不思議というか奇怪と言おうか。国会で効力を失わせた「教育勅語」が決して息の根を止められていなかったような塩梅で、時には白昼堂々と島中を闊歩するがごとくであります。したり顔で「勅語」の道徳性や普遍性を解説に及ぶ御仁たちは、いったいどのように「勅語」を読んでいるのかしら。隙あらば、夢よもう一度とばかりに導入を目論んでいるのかもしれないが、ぼく(ら)にとっては、それは「悪夢」です。どんな文書でも、どこかにはなにかしら「いいところ」はあるものですが、全体の中でそれをとらえると、どうなるか。問題は「いいとこどり」が過ぎるというばかりです。ほんとうにていねいに「奉読」したのか、じつは怪しいのではないかと、ぼくはみています。憲法だって、まともに読んでいない「議員」さんの集まりが国会です。

 ぼくには理解できないのが、学校教育への介入というか、支配です。それで何を、どうしようというのかしら。まさか、竹やりで「尽忠報国」に、というのではないでしょうに。まるで西から日が昇るような、寝ぼけた連中ばかりが議員になりたがるのでしょうか。(もちろん、議員はすべて、などとは言わないつもりですが)

 子どものために学校教育をさらにいいものにしようというのですが、「いいもの」の中身が「教育勅語」などに直結するようでは話になりません。

 戦後に作られた中教審はまったく形骸化してしまいました。そこでは政府や行政の意のままに動く機械と化した御用機関の姿しかありません。そこに集まる連中もまた、歴史に責任を持とうという気概は微塵もみられないとは、ここでもまた頽廃のきわみというほかありません。「誘蛾灯」というものが、その昔ありましたが、近年の審議会や諮問会議はまさしくそれですね。「機関」が「誘蛾灯」で、そこに集まる「蛾」は五万というという寸法です。

 ぼくは「教育は私的なものだ」といい続けてきましたし、今もその姿勢はかわりません。ここに「天皇」が出てくる気づかいは微塵もないというべきで、右向けとかに左向けなどと号令をかけられるだけで、ぼくの体内に虫唾が走り回るのです。

御真影奉安殿 1938年10月、同志社チャペル東側に設けられた。天皇・皇后の写真、教育勅語謄本などを奉安するために、学校の敷地内に1920年代後半から設けられ、1930年代にはほぼすべての学校に普及した。(https://www.dwc.doshisha.ac.jp/about/publicity/publication/125_years/chapter3_2)→

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 「敗戦後」は通算して七十五年。ぼく流にいえば、「戦前」が七十五年続いたことになります。願わくは「永遠の戦前」であってほしいのです。こんなところにもういちど、「天皇」のお出ましを冀(こいねが)うのは御免被りたい。

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 いちばん悪い時にも足場はある

「戦後民主主義」とはなんのことですか

 記憶は曖昧ですが、以下の話はこのブログのどこかで触れました。記述はしていないが、触れようとしました。すでに四十年前に書かれた文章ですが、今でも十分に参考になります。敗戦直後からさかんに「戦後民主主義」という言葉が流行しました。その反動かどうか、今日ではほとんど口の端に上ることはなくなりましたが、一時期の流行りは猖獗を極めていました。まるで猫も杓子もといった塩梅で、「戦前派」までが盛んに吹聴していたものでした。それを快く思わない人がいるのもまた、当然だし、ぼくも数の中に入るつもりです。「戦前、にも「戦中」にも民主主義はあったからです。戦後の文部大臣のごときは「天皇制民主主義」とまで言ったことがありました。「民主主義」はいたるところに存在するようです。独裁・専制とだって同居するのです。

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 「だから、戦後の初心に返るというのはあんまり好きじゃない。むしろ、戦中の初心に返ったらどうですかと言いたい。人間が生きているところに権力を批判しようという動きは必ずあるんで、そこからとらえていくことが重大なんじゃないでしょうか。

 戦後民主主義の型にもどろうと思ったって、そんなもの足場もなにもあったものじゃないですよ。いちばんわるいときにも足場はあるはずで、いまももちろんあるんです。だから、今の足場からやるのがいいだろうというふうにわたしは思いますね。

 戦中の民主主義の話として私が思い出すことが一つあるんです。京都に進々堂というパン屋があるんですが、その社内報に續木満邦という人が自分の戦争中の思い出を書いていたんです。

 この人はかなり年をとってから招集されたんですが、招集から十日後に二等兵のまま中国の前線に送られて、そこで訓練された。しばらくたってから、二月の寒いときだったそうですが、「あした、林に連れていく。スパイを木に縛りつけておくから、それを銃剣で突き刺せ。死刑にしろ」と言う命令が出たんです。肝だめしの訓練ですね。その晩、眠れないでベッドの上で考えた。逃げようかどうしようか。そして、明けがたになってようやく決断したんです。現場には行く、しかし、殺さないと。

1902年(明治35年)7月、内村鑑三第3回夏期講習会に集った人々。2列目右から7人目が内村鑑三。前列右から4人目が続木斉、3列目右端が有島武郎、5列目左から4人目が志賀直哉、最後列右から4人目が小山内薫等。(満邦氏は斉氏の四男。彼もまた内村派でした)(http://www.shinshindo.jp/

 朝になって林のなかに行くと、木にスパイが縛りつけられている。しかし、実はスパイかどうかわかりゃしない。裁判も何もないんだから。小隊長が「突け」という命令を出した。しかし、續木氏は動かなかった。「續木、なんだ!」って、名指しされたけれども、それでも動かなかった。そうすると小隊長が自分から寄ってきて、銃剣をとって尻をポカンと殴った。そして、兵営に帰ってから「おまえは犬にも劣るやつだ。軍靴をくわえて四つんばいで歩け」というわけで、兵営の庭を歩かされたそうです。人を殺さなかった續木氏を犬にも劣るやつだというセンスが実におもしろいんだけどね。

 續木満邦氏は去年(一九八二年)亡くなりましたが、日本人のなかにはそういう人がいるんだね。戦中にも、ある種の民主主義、権力の命令に対する抵抗はあるんですよ。そういう人は自分の尻の上に坐っていた人で、精神の現象学とは関係ないんです。「戦争が終わった、これから民主主義だ」なんていう人はどうかしてる。そんなふうに考えていたら、別の時代が来ると崩れるのはあたりまえでしょう。だから、戦争中にもどって考えなおしたらどうですかと言いたいし、…」(鶴見俊輔)

 別のところで鶴見さんはこの記事にふれて、つぎのように書いておられます。「不服従の作法」と題して。軍靴をくわえてはいまわったのは、彼だけではなかったそうです。

 「行儀について書こうとする」時、まず浮かんできたのは、續木さんの文章だった。

 「日本人でなくても残虐行為はするし、社会主義国の国民も残虐行為をすることは、第二次世界大戦とその後の三十五年間の世界史でわかった。

 しかし、日本人の行儀作法を考える時、残虐行為を命じられた時にもしないという作法を身につけた人(そういう人がたしかにいた)がどういうふうに育ったかを知ることが根本問題の一つだと思う。

 第二次世界大戦のころの日本では礼儀作法がやかましく言われた。敬礼、正座、靴のぬぎかた、電車内の席のとりかたは、戦後の今よりもずっときちんとしていた。それでも日本の国外に出ると、作法は根本のところが守られなかった」

 民主主義というのは礼儀作法のことだったのです。自分はどこにお尻をのせて坐っているのか。はたして、「自分の尻の上に坐っている」のか、それとも他人の肩や口車に乗っかっているのか。「集団の動きにかぎりなくゆずってゆく身ぶりとしての行儀と別に、集団の狂気から身を守る用意のある行儀が大切だ」と鶴見さんは言います。

 民主主義だ、平和だといっても、さて、自分はなんの上に坐って、ものを考えものを言っているのかということです。戦争中にも民主主義があったというのは特別な話じゃないわけで、それが外国から、他者から与えられたというほうがおかしいというか、まちがいなんじゃないか。もともと、「わたし(じぶん)」のなかに、そのような平等を求めようとする、あるいは権力の無謀に対する批判・抵抗の精神があるということに気づくことが大切なんだといいたいのです。誰彼の胸中には必ず理不尽なことに対する怒りや反抗の気分はあるのです。それをわざわざ隠すことはない。

 今日の状況をみれば、やたらに礼儀が廃れていると思われるのは、きっと礼義が死んでいるからにちがいない。いったい、何のための教育なのかと、あらためて問い直したい。自分がなければ、礼儀も生まれない。コロナ禍にも、民主主義は死なないで、つまりは生きているのです。「集団の狂気」に引き込まれない準備(用意)こそ、礼儀なのだから。ここで「礼儀」というのは、自分に対する注意深さを指しています。

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だまつて今日の草鞋穿く

しぐるるや死なないでゐる

水に影ある旅人である

しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

木の芽草の芽あるきつづける  (種田山頭火)

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