ニセものであることの楽しみ

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 《 私は戦後を、ニセの民主主義の時代だと思うが、しかし、だからといって、それを全体として捨てるべきだとは思わない。ニセものは死ねと、ほんものとしての立場から批判する思想を、私は、政治思想として信じることができない。それは精神の怠惰の一種、辛抱の不足の一種だと思う。

7月19日は戦後民主主義到来の日(ヨシタケシンスケ作・2016/07/19)東宝映画「青い山脈」が初封切りされた日です。(←)

 しかし自分をほんものと規定しないかぎり、ニセものをニセものとして見て批判する運動には共感をもつ。自分を幻想なきものと規定しないかぎり、民主主義をふくめて戦後のさまざまの幻想を批判する運動に共感をもつ。戦争中の軍国主義と超国家主義のにない手がそのまま戦後の平和主義と民主主義のにない手であるような日本の現代が、ニセものでないはずはない。(中略)

 二十三年間の戦後日本の民主主義に失望することはない。この民主主義が、実は軍国主義によってになわれてきたこと、今も部分的にその状態が続いていることを直視して、これと正面から対立することを自分に課して生きてゆけばいい。ニセもののニセもの性をあばくあらゆる動きを、その動きがみずからをほんものと規定している点を別とするならば、私たちは受入れるべきだ。戦後日本の民主主義のニセもの性を照し出す実にさまざまの光源から、私たちは光をかりてくる必要がある。

 在日朝鮮人の問題、沖縄の問題、占領軍からも政府からも見捨てられてきた原爆被災者の問題、十五年戦争の事実をかくそうとする教科書検定制度の問題。それらの問題からとってきた光によって、私たちは日本政府のとなえる民主主義のニセもの性をはっきりさせるとともに、私たちの戦後民主主義のニセもの性をあわせて照し出し、そのニセもの性とともに生きる決意を新たにしたい。ニセものであることのたのしみが、人生のたのしみではないのか。自分のニセもの性をみずから笑うたのしみが、私たちが開拓することにできるもう一つのたのしみではないのか 》(鶴見俊輔「二十四年目の『八月十五日』」・1968)

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 鶴見さんの指摘からもすでに半世紀以上が経過しました。はたして「ニセの民主主義の時代」は終わったか、あるいは依然として継続しているのか。いわずもがな、です。ひょっとして、ニセものを本物と取り違える人は大いに増加したのかもしれないし、同時に、「自分は本物」だと錯覚する人が大いに勢いを増している、そんな時代をぼくたちは生きているにちがいありません。「自分をほんものと規定しないかぎり」、「自分を幻想なきものと規定しないかぎり」、と鶴見さんはくり返しています。「自分のことを棚に上げない」「自分を別の惑星人であるとみなさない」のは当たり前で、ぼくたちは「ニセもの性」の中で育ってきた。嘘に染まり、ニセもの性の空気を吸ってきたのは事実で、だから厄介であるというのです。ニセの世界の住人であることをやめることは、自分を失うことでもあるからです。ニセの部分を含めて自分である、と。(←「青い山脈」・↓靖国神社)

 「ニセものであることのたのしみが、人生のたのしみではないのか。自分のニセもの性をみずから笑うたのしみが、私たちが開拓することのできるもう一つのたのしみではないのか」というほど、ぼくは達観も楽観もできないし、自分のニセもの性を笑う楽しみが持てるとは、残念ながら思えない、そのおのれの弱さを鍛えたい。もっと弱い人間であるという、その在り方を高めたい。つまり、自分はまた立派なニセものであるという自覚は失いたくないと、改めて敗戦から七十六年目の歩みだしに際して痛感しているのです。「バカだ」ということと、「おれはバカだ」と告白(自白)するのは違う。大いに違うと思います。「バカにしないでよ」と、ぼくはプレイバック(playback」はしないつもりです。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです