
「僕も(デモで)歩きながら、不戦と民主主義の憲法、つまり「戦後の精神」を譲らない老人でいようと思う。」(大江健三郎)(『朝日新聞』2014-04-20)
《 戦争がおわったとき、ぼくは山村の小学生で、十歳にしかすぎなかった。天皇がラジオをつうじて国民に語った言葉は、ぼくには理解できなかった。ラジオのまえで大人たちは泣いていた。ぼくは、夏の強い陽ざしのあたっている庭から、暗い部屋のなかで泣いている大人たちを見つめていた。(略)
天皇は、小学生のぼくらにもおそれ多い、圧倒的な存在だったのだ。ぼくは教師たちから、天皇が死ねといったらどうするか、と質問されたときの、足がふるえてくるような、はげしい緊張を思い出す。その質問にへまな答え方でもすれば。殺されそうな気がするほどだった》(大江健三郎《戦後世代のイメージ》)

その天皇が「ふつうの人間の声で語りかけた」ことに大江少年は驚きにうたれた。そのような畏れ多い存在が「人間になってしまうということ、それは信じられることだろうか」と。その思いを少年は教師に尋ねた。「天皇制が廃止になると大人がいっているが、それはほんとうだろうか?教師はものもいわず、ぼくを殴りつけ、倒れたぼくの背を、息がつまるほど、足蹴にした。そしてぼくの母親を教員室によびつけて、じつに長いあいだ叱りつけたのである」
この後、大江少年は学校に行くことができなくなり、家の裏の森に入っていった。このことは以前に触れました。

《 最初に私が、なぜ子供は学校に行かねばならないかと、考えるというより、もっと強い疑いを持ったのは、十歳の秋でした。この年の夏、私の国は、太平洋戦争に負けていました。日本は、米、英、オランダ、中国などの連合国と戦ったのでした。核爆弾が、はじめて人間の都市に落とされたのも、この戦争においてのことです 》
嵐にあって森から出られず、大変に衰弱していたところを救い出された。そのとき、看病していたお母さんは「ぼくは死ぬだろう」と心細くなっている少年に、次のように答えたのでした。
― もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。
若いころから、ぼくには大江さんのような感受性というか、政治判断力というものが著しくかけていることに気づいていました。おれはダメだ、というのではなく、なぜ大江さんはあのように「時代認識」を鋭敏にもっているのかと、脅威を感じたことがしばしばでした。戦後世代を自任ていた彼とぼくはわずかに十歳ほどしか違わない、育った環境の似たようなもの(都会の真ん中ではなく田舎)、あるとすれば、才能という可能量の差だけだと、ぼくはいやおうなく「利口な人」の存在を認めさせられたのでした。だから、ある時期から、大江さんの歩き方を常に注意して眺めていたように思うのです。だが、彼の真似をしようとか、うらやましいと考えたことはなかった。布右派布うなりに、自分の脚で歩くだけだ、と
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七十五年が経過した現在でもなお、さまざまな「八月十五日」の経験(体験)ということを考えます。今となれば、歴史的な時間の連鎖に組み込まれてしまっていますが、人それぞれに「戦争の終わり」(敗戦)を受けとめたはずです。大江さんの場合は「小国民」としての、それでしたが。現場の教師はどうであったか。二つばかりの例を挙げてみます。「敗戦を現実に生きた」ものと、「そうではなく、歴史の上で経験する」ものの差異は決定的なのかどうか。

① 七月末、新聞の下のほうに小さく、連合国がポツダム宣言を発表したこと、わがほうはこれを黙殺して聖戦完遂に邁進する、という記事を見た。ばかな!(中略)八月十五日、老婆と子どもを疎開させようと上伊東へ、国民学校二年の次女と荷物を運んだ。昼食のお湯をもらいにいくと放送中 ― 敗戦の宣言とわかった。次女をつれてそのまま山道を越えて帰った。「見ろ」と叫びたい気持であったか、やっとといった安堵感であったか、やはり興奮して帰ったようで、的確には思い出せない。夏の道がかっと白く、長かった。

日本帝国主義の崩壊 ― 長い屈辱の日々。暴力への怒りが徐々に、腹の底から湧いてきた。(藤原 治『ある高校教師の戦後史』)
② 昭和二十年八月十五日「鬼畜米英」も教えた。「打ちてしやまん」も教えた。「大君のへにこそ死なめ」とも教えた。そして卒業生たちに出征のたびに激励のことばも送った。その私がどのつらさげて再び子どもたちの前に立つことができようか。(金沢嘉市『ある小学校校長の回想』これについては既出)
ぼくはこの種の「回想・回顧」「反省」「後悔」「怒り」などがこめられた、じつにたくさんの残された記録を読んできました。それぞれに切実であったのだろうという思いとともに、自分であればどうだったか、という疑似体験に似た思いをいだかされて来ました。七十五年たって、今はどうなんだと聞かれれば、じゅうぶんに答えることができそうにないのです。理由は? 憲法があり、敗戦の歴史があり、被爆という稀有の体験も舐めた島社会の一人の人間として、ぼくは「戦争を忌避する」点では疑問の余地もないのですが、この島社会が再び戦争することがない、そのためにお前はなにをするのかと問われているからこそ、七十五年の歴史をもってしても、うまく答えられそうにないのです。

国会議員をはじめとして、バカな連中は「敵基地攻撃能力」などという戦争仕掛けごっこを楽しんでいるようにさえ思われます。軍備増強を言い、専守防衛のために同盟国とともに戦うのだと勇ましいことを吹聴している人は「戦争(兵隊として)にはいかない」ことがはっきりしている。 戦争に駆り出されない側の人間が戦争を語るという滑稽な仕組みもまた、ぼくにはこの問題を現実問題として理解させ難くしています。
「敗戦後」、ぼくたちはどこに根っ子をおろそうとしたのか、それがあいまいであった、あるいは軽々しいいものだったがために、いまになって方向を定めがたくさせられているのです。「土下座はした」が、その根はどこにも張っていなかったし、だから育っていなかったのだ。いまだに根無し草の縹渺とした歩みをさらしているのです。浮き草暮らしが身についてしまったというのでしょう。
学校教育の偽善性ということを、長い間、ぼくは考えてきました。「反省」はさせられるのではなく、するのだということを、実践したいと念じています。馬鹿の一つ覚えのように、教師は「反省文」を書かせます。それでどうなの?「書いたら、反省した気になる」のが人情であるし、反省していると認めたくなるのもまた腐った人情です。自省というのは、他人の目を気にしないことであり、自分に正直になることを言うのです。自省は、きっと自制を促します。
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◇資料「アメリカ教育使節団(第一次)報告書」より
「われわれは決して征服者の精神をもってきたのではなく、すべての人間の内部に、自由と、個人的・社会的成長とに対するはかり知れない潜在的欲求があると信ずる、経験ある教育者として来たのである」

「しかし、われわれの最大の希望は子供たちにある。子供たちは、まさに未来の重みを支えているのであるから、重苦しい過去の因襲に抑圧されるようなことがあってはならない」
「われわれは、いかなる民族、いかなる国民も、自身の文化的資源を用いて、自分自身あるいは全世界に役立つ何かを創造する力を有していると信じている。それこそが自由主義の信条である。われわれは画一性を好まない。教育者としては、個人差・独創性、自発性に常に心を配っている。それが民主主義の精神なのである。われわれは、われわれの制度をただ表面的に模倣されても喜びはしない。われわれは、進歩と社会の進化を信じ、全世界をおおう文化の多様性を、希望と生新なカの源として歓迎するのである」「本来、学校は、非文明主義、封建主義、軍国主義に対する偉大な闘争に、有力な協力者として参加するであろう」(以下略)
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