だれかとつながりあうための力

 余録 言葉の持つ力。それは「傷つけるためではなく…

 言葉の持つ力。それは「傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、だれかとつながりあうための力」だ−−。今年の本屋大賞を受賞した小説「舟を編む」(三浦しをん作、光文社刊)の一節である。辞書は言葉の海にこぎだす舟、その舟を編むのが辞書づくりだという比喩が美しい▲悲しいかな、私たちが現実に耳にする言葉は、辞書づくりに一生をかける作中人物たちのように温かくはない。相手を責め立てる言葉、だれかとつながりあうための言葉ではなく、だれかを傷つけるための言葉がはんらんしている▲

 大型連休前の問責決議で、田中直紀防衛相の資質を問う国会論戦があった。子どもの世界のいじめにも似た集団での嘲笑に、眉をひそめる国民も多かったのではないか。その職にいかに不適格かを丁寧に説く方が、よほど言葉に重みがあっただろうに▲この国の政治は議論がいつもかみあわない。与党も野党も自分たちの陣地を築き、壁を高くして、互いに言葉を投げつけ合っている。壁の内側は仲間の世界だ。そこでしか通じない言葉を使っていれば、それはいつしか仲間だけを守り、敵を傷つけるための言葉になってしまう▲

 コミュニケーションとは本来、考えを異にする者同士が相手の意見に耳を傾け、それを尊重し、そして自らを高めていくことである。人と人がつながりあうために、言葉は生まれたのだ▲連休明けには問責決議の後始末と消費税の国会審議、そして小沢一郎元代表の処分解除をめぐる民主党内の論議が始まる。言葉のつぶてがむなしく飛び交う政治の光景を、また見せつけられるのはごめんこうむりたい。毎日新聞・12/05/05)

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 教師っていうのはなんだよ、ことばの種をまく人だと思うな(山埜)

  《 孤立した人間がいないのと同様に、孤立した思考(たった一人で考えるということ)もないんです。ものを考えるには、その対象が必要となりますが、さらにことばを交わしあう一人の相手がいなければならないのです。したがって、人間の世界はコミュニケーションの世界となるんですね。つまり、「わたし」と「あなた」と「(その間を媒介する)対象」があって、はじめて「考える」という行為は成り立つということです 》(山埜郷司)

 以下は識字教育に深くかかわった思想家の文章からの引用です。

「ねえ君、君は最初のことばを読み書きできたとき、どんな感じをもった?」

「ことばを話せることがわかって、うれしかったな」と、かれは応えた。

← 出典:総務省「世界の統計 2016」

 ダリオ・サラスDario Salasは、次のように報告している。

 「農民との会話のなかで、私たちは、識字者になることの利益と満足感を表現するために、かれらが使ったイメージに衝撃を受けた。例をあげてみよう。

 『以前おれたちは目が見えなかったが、今では目からうろこが落ちてしまった。』

 『わしは、自分の名前の書き方を習うためだけに来た。この年になっても字を読めるなんて、思いもよらなかった。』

 『これまでは、文字が小さなあやつり人形みたいに見えた。今では、文字がおれに向かって囁きかけ、文字に口を聞かせる事ができる。』

 サラスの報告は続く。

 「ことばの世界が眼前に開けるときの、農民たちの喜びを目にするのは感動的である。ときとしてかれらは、こんなふうに言ったものだ。『疲れすぎて頭痛がする。だけど、読み書きを学ばないで、ここから帰ろうとは思わない。』」

 鳥には翼がある。

 エバはぶどうを見つけた。

 おんどりが鳴く。

 犬が吠える。

 このような細切れの言語・文脈について、その人、パウロ・フレイレは次のようにいいます。

 《(それらは)たしかに言語の文脈である。しかしそれが機械的暗記や反復に堕するとき、その言語文脈は、現実とダイナミックな相互作用する思考―言語としての真の次元を剥奪される。このように思考―言語としての価値を奪われているがゆえに、これらの文章は、真の世界表現たりえないのである》(フレイレ「人間と世界のかかわりのなかで」) 

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 文章が書けて、読める。それだけでも大したものですが、読み書きだけで完了しないのが「ことばの力」です。ぼくたちは、「ことばの力」に負けることもあれば、それに励まされることもあるのです。人間は何から作られているか、と問われたら、ぼくはまちがいなく「ことば」からと答えるでしょう。読み書きだけで用が足りることもありますが、それを越えて、ことばが力をもつことの方が多いのです。ここで「言霊」などという得体のしれない単語を使いたくありません。「傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、だれかとつながりあうための力」こそが、ことばの真意だという三浦さん。本当にそうだといいたいですね。

 いまはさらに「ことばが軽い」時代になっています。誰彼の語る言葉自体が軽々しいし、ある一定の間尺に合う範囲でしか使われない言葉もまた「せまくるしい」「遊びのない」ものにならざるを得ません。よく「生きたことば」などといわれますが、それはどのような言葉なのでしょうか。メールやSNSなどに固有のことば(記号)があるのでしょう。(ぼくは今風のスマホなどは一切やらないから、事情には疎いのを隠しません。だが、たとえば、cancel culture などという語が通用する社会や時代がどんなに言語に関して貧しく卑しいものになっているかはわかるつもりです。「伝え、つながる」ための力を失い、「傷つける」「貶める」力が猛威を振るうというのはいかにも、言語の世界が破壊されている証拠でもあるでしょう。社会の指導者と目される人が率先して、悪意に満ちた言葉を、まるで弾丸のように乱発する時代や社会に生きるというのは、ことばで出来上がる人間の存在の(破壊の)危機であることは言うまでもありません。

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