精神の異同を養成して以て独立の…

《且夫れ一定の学制を布きて国民を一様に教育せんとするは、結局行われざるのみならず、設ひ実行せらるヽも、所謂一主義を国中に弘布するものにして、国家開明の最も害とする所なり。全国民をして一様一体の精神に養成せしめんと欲せば、則ち浴衣の揃でもよし裸の揃でもよし、斉しく是れ一様なり一体なり、唯有形無形の差あるのみ。豈国民をして如此操人形に為す可けん哉。宜く精神の異同を養成して以て独立の気象を渙発す可き也》(植木枝盛『愛国新誌』明治十三年十月)

 《且つ夫れ教の義たる、先覚者の後覚者を開誘するにある以上は、恰も父母の児童を訓ゆると一般なり。父母の児童を訓ゆるは緊束を要す。則ち教育の義、固と干渉の旨を含有せりとす。且つ夫れ普通教育にして政府の干渉すること無ければ、則ち教員たる者教育の順次を誤まり、自己の癖する所に随て子弟を誘導し、未だ人間普通の徳義を弁ぜらるの児子に高尚の理論を教え、史学に托して政論を説き、甚だしきは世変に処するの術を講ずるものあるの徴を現ずるに至る》(河野敏鎌「地方学事視察につき上書)

 この二つの文章をじっくり読んで下さい。いずれも土佐の出身である両者は、〈教育〉を巡って両極に位置しています。一方は〈自由教育〉を標榜し、他方は国家の〈干渉教育〉を主義としているのです。いずこも同じ秋の夕暮れ、ならぬ教育のたそがれのように思われます。時は明治十三年。自由民権運動に脅威を感じた政府筋は、国権の発動として教育を管掌するためのさまざまな策を凝らします。これはその後の「学校教育」の分岐点となりました。この国の〈近代化〉に「学校教育」が負わされた制度的な使命は幾変遷をたどりつつ、敗戦にまで至ります。

 また、以下のような政策が宣言されたこともありました。事情が許さずに廃止されましたが、スキあらば、といつでも権力の椅子にへばりつく者たちはこんな圧政を企んでいるんですな。

 《朕恭しく惟るに、天神天祖極を立て統を垂れ、列皇相承け、之を継ぎ之を述ぶ。祭政一致、億兆同心、治教上に明らかにし、風俗下に美し。而るに中世以降、時に汚隆有り、道に顕晦有り、今や天運循環し、百度維れ新たなり。宜しく治教を明らかにして、以て惟神の道を宣揚すべきなり。因て新たに宣教使を命じ、天下に布教せしむ。汝群臣衆庶、其れ斯の旨を体せよ》(「大教を布告するの詔」明治3年1月)

〇大教宣布(たいきょうせんぷ)=明治維新の当初神道によって国民思想を統一し,国家意識の高揚をはかった政策。神祇官が再興され,教導局,宣教使が設けられ,明治3 (1870) 年1月3日には,大教宣布に関する詔書が出された。のち,教導職,大教院の設置など,宣教の拡大がはかられたが,仏教側の反対により,1884年には終止符が打たれた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 明治七年生まれのある学者は次のように当時を回想しています。

 《曽て板垣さん(右写真)が自由は死せずと呼号した時代に、私の旧宅の門前に於て、若い酔狂人が大の字になって怒鳴って動こうとしない。母は出て行って門の戸を締め貫抜きを通し、私たちは陰に隠れて恐る恐る覗いて居ると、彼の友だちが傍にそっと近よって、百方なだめすかして連れて行こうとするが、酔っぱらいは愈々強く踏みしめて、自由の権だいという文句を何遍か高く唱えた。是が私の此語を学び始めた日であったが、それから今日まで此語はきらいである》(柳田国男『故郷七十年』)

 「そんな自由なことは許しません」というほどに、〈自由〉が嫌われた例を柳田さんは出しているのだが、「よしやシビルは不自由でもポリチカルさえ自由なら」と「よしや節」が盛んになればなるほど、権力あるものはそれを抑圧するようになる、ということの繰り返し、それが人間集団の歴史であったともいえそうです。「自由教育」か「干渉教育」かという教育観の対立も、結局は政治の世界の問題であったことになります。教育は政治問題そのものです。先年、ぼくは土佐を訪ねて、いろいろと考えました。後ろは山ばかりで猫の額ほどの土地に張り付き、山を均して家を建て、畑を作る。長曾我部の末裔の辛苦を目の当たりにして感慨が深かった。親父の郷里も土佐で、まことに頑固者でした。前は太平洋でその先にアメリカがあるといったのは、小野梓でした。板さんよりよほどの人物でしたね。

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〇よしや節=今日の「よさこい節」の元になるものとされます。

①安岡道太郎「よしや武士」(抄)・・・民謡「よさこい節」の替え歌(註 安岡は土佐の民権家だった)

   ▽よしや南海 苦熱の地でも 粋な自由の風が吹く

   ▽よしやこの身はどうなり果ちよが 国に自由がのこるなら

   ▽よしやお前が通さぬ気でも 開けゆく世に関はない

   ▽よしや糸目が切れよとままよ わたしゃ自由の奴凧(やっこだこ)

   ▽よしや憂目にアラビア海も わたしゃ自由を喜望峰

   ▽よしやシビル〔文明度〕はまだ不自由でも ポリチカルさへ自由なら

   ▽よしや圧政するならさんせ ルイ十六世の末をみよ

②植木枝盛「民権数え歌」(抄)(註 植木は福沢諭吉の愛弟子でありました)

   ▽一ツトセー 人の上には人ぞなき 権利にかわりがないからは コノ人じゃもの

   ▽二ツトセー 二ツとはない我が命 すてしも自由のためならば コノいとやせぬ

   ▽三ツトセー 民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある コノあわれさよ

〇安岡道太郎(1847-1886)明治時代の民権運動家。弘化(こうか)4年3月8日生まれ。安岡覚之助,嘉助の弟。はじめ道之助と称した。摂津住吉(大阪府)の高知藩陣屋につとめ,維新後は立志社に参加。明治11年杉田定一(ていいち)とともに九州地方をめぐり,愛国社の再興をうったえた。民権歌「よしや節」の作者。高知新聞の記者となった。明治19年6月26日死去。40歳。土佐(高知県)出身。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

 「よしや圧政するならさんせ」と唆し、「民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある」と嘆息自在でした。

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