いつの時代から、学校は「優劣を競う」アリーナ(闘技場)になってしまったのか。あるいは「成績(点数)」が人間を計る尺度になってしまったのか(土台、そんな滑稽なことはあり得ないにもかかわらず)。このことを根っこの部分から考えるために学校教育の歴史の最初期から教職にかかわってきた(児童生徒として、教師として)芦田恵之助さんに焦点を当てて考えてみたいと思う。(芦田さんは、けっして学校優等生ではなかった。それはとても大事な教師の資質ですね、自分を優等生だとみなしている人は教師には向かない)

「生活綴方」という教育実践を通して、彼は何を成し遂げようとしたのか。生活綴方とはどんな教育だったのか。日本における「生活綴方」の源流に位置するひとりだった彼の求めたものはなんだったのか。
随意選題の提唱
《 私の随意選題による綴り方教授は、当時漸く抬頭して来た自由思想の影響をうけたのではありましょうが、その根抵をなしたものは、従来の綴り方教授、即ち課題によるものが、自分でも興味がなかったし、担任学級に課してみても、児童が少しも喜ばなかったという事実でした。興に乗っては、何事にも夢中になる児童が、いかなければ生ける屍のごとく、その苦痛をすら訴え得ぬことをしみじみあわれに思いました。何とかして児童をその拘束から脱して、文を綴る喜びに浸らせたいと思いました 》(『恵雨自伝上』)
決められた題を与え、決められた形式の文章を書かせようと「どんなに骨折ってみても子供が作文を書かん」それならいっそのこと、「お前ら書きたいことを勝手に書け」となったというのです。押しつけではなく、強制でもない作文教育の方法は窮余の一策だった。行くところまでいって、その先一歩も進めないときに、道は開かれた。道元の言葉だったでしょうか、「百尺の竿頭、進一歩」というのがあります。ながい竿の最先端まで登っていき、先のないところをさらに一歩を進めと。無理難題なのですが、万策つきる地点までいたらなければ、なにかが生まれるはずもないのです。(外からの強制ではなく、内からの動機がなければ始まらないという、当然の理屈を芦田さんは見出した)

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劣等児と優等児 教師が神経過敏になって、児童の学業を督励し、児童も孜々として学業に勉強する。その結果は神経過敏の劣等児と神経過敏の優等児を生ずる。優等児は級の平均点を高める者として尊重せられ、劣等児は之を低める者として軽侮せられる。然し両者その相距る事は甚だ遠くない。何となれば両者共に学問の真意義を知らず、学習の態度が確立していない。又教育時期を過ぎて、知識の剥落する傾向をもっている事も亦甚だ相似ておる。余の意見にして若し幾分の真理があるとしたら、間違った教授のために、児童は日夕不幸の運命を自ら作りつつあるのではあるまいか。
学科の成績 心なき父兄は学科に対して器械的な考えを持っている。教師の中にもないではない。学科の全部が優良であるのを非常に喜ぶ傾きがある。したがって全課を優良ならしめようために、種々なる方法を以て督励する。余は心窃かにその真意を解するに苦しむ。多くの児童中には研究心うちに旺盛して、学習の態度も確立し、恰も坦々たる大道を虚心平気に歩むがようにして、而も全科優良の好成績を収める者がある。そは優良なる天賦と真意義の教育をうけた者の享有する特権である。他の督励により、強度の努力によって得た全科の優良などは、全く似而非なる者である。
即ち真の教育をうけた者の研究心は、独り学科の上のみならず、社会万般の上に働いて、向上発展その停止する処を知らぬものがある。督励による研究心は、学科の優良がその到達点で、ここに到達すると共に衰頽の兆を示すものである。要するに学科の全部が優良であるという事実は父兄が喜ぶほど尊いものではない。したがって学科に長短のある事も、さして憂うべきことではない。児童には各自各位の個性があって、真の研究心が何科にその萌芽を発するか知れぬ。吾人はその萌芽を培養することが任務である。児童がいかなる門より入るも、確固たる研究心が樹立せば、一切の真理はいたる所に発見することが出来る。今後の教授は知識の伝達よりも、研究心の養成を重んじなければならぬ。(芦田恵之助『読み方教授』大正五年)

●芦田恵之助(1873‐1951(明治6‐昭和26))=大正・昭和初期に活躍した国語教育者。号は恵雨(けいう)。兵庫県に生まれる。兵庫県、京都府訓導などを経て、1899年(明治32)東京高等師範付属小学校準訓導、のち訓導。樋口勘次郎(ひぐちかんじろう)(1872―1917)の思想的影響を受け、綴方(つづりかた)教授の改革にあたる。また坐禅(ざぜん)主義者岡田虎二郎(とらじろう)(1872―1920)について静坐(せいざ)を修行、自己内省の方法を改革に生かそうと試みる。旧来の課題主義による範文模倣的な綴方教授に対し、自由に課題を選ばせ、自由に記述させる随意選題主義を唱え、後の生活綴方教育運動の一源流となる。また読みと思考を中心にした読み方教授法の改革をも試みた。1917年(大正6)文部省嘱託を兼ね『尋常小学国語読本』を編集し、また1921年、朝鮮総督府編集官として『普通学校国語読本』の、また1924年には南洋庁嘱託として『南洋諸島国語読本』の編集にあたった。1925年の退職後はもっぱら全国を授業行脚(あんぎゃ)した。『同志同行』誌(1930創刊)を発行。主著に『綴り方教授』(1913)、『綴り方教授に関する教師の修養』(1915)、『読み方教授』(1916)などがある。[尾崎ムゲン](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)
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上に示した、二つの記述を熟読するまでもなく、そこに今日(これまで)の学校教育の悪弊がどのようにして萌芽し、のさばるかを芦田さんは如実に示しているのではないか。「優等生」「劣等性」の「相距たる事は甚だ遠くない」。どちらも「学問の何たるか」も知らないし、「学習態度」ができていないからだという。子どもの不幸は教師によって生み出され、さらに培養される。自分で学ぶ「方法」をこそ、児童が見つけられるように教師は尽力する必要があるのだ。誰ができて、誰ができないかを自他に明らかにするなどは、下の下の下の仕事だけれど、それだけが(といいたいほど)教師の教育目的になっているんじゃないですか。ぼくは一貫して劣等生だったから、このことはよくわかるつもりです。人より優れていたいという感情は否定しないが、自分を高めるために他人を貶めるような、成績獲得競争には一利もないし、それを強制しようという教師の振舞いは全否定されなければならない。人に敬意を持つ気分がいつの間にか消えてしまうという、学校教育の惨状をこそ、肝に銘じておかなければなるまい。(並みいる政治家や官僚や大企業の幹部たちは、この「学校優等児の成れの果て」かね)

子どもをまともに教育しようとするなら、まず親を再教育すべきであると、ぼくは言い続けてきました(まあ、ほとんど手に負えないのが通常です。もう「育ってしまった」「育ちたくない」と固く信じているんだから)。学校という場所は「子どもを人質」にして、「親を鍛え上げるところ」だと。うちの子はだれちゃんより頭がいいのだと願うのはいいが、引合いに出された子どもには迷惑な話です。自分の子中心でしか学校教育を考えられない親の子どもが、どんな子に育つか。己(親)を越えて子どもは「優れる」ことはないのです。別に卑下する必要もない。子どもは子どもの道を見つけるように条件を整備するのが親の責任じゃないですか。
ここに、芦田さんを持ち出したのは、学校制度の開始以来、いつでも学校は「優劣競争」「成績獲得争い」に明け暮れていたという状況に、時にはそれは間違いだ、子どもの力を、その独自性において見出す、それが教師の天職だという、まことにご苦労な仕事を引き受ける教師がいたということであり、ある意味では両派(優劣顕在派教師対優劣似たりよったり派)に割れた教師たちの戦いの場であったということを示したかったからです。数の上では圧倒的に芦田派は少数でした、いつの時代も。だから、存在の意義は厳としてあるんだ。悔しかったら、「優劣似たりよったり派」になって御覧な。なかなかいい汗がかけるかもしれないね。
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