成長しないで、成長させるなんて…

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文学史練習問題

一 次の①~⑤ の説明に当たる人物と作品を、それぞれ後から選び、記号で答えなさい。

① 江戸時代、一生を旅ですごし、多くの俳句を作り、東北地方の大旅行をまとめた紀行文もある。

② 奈良時代、日本最古の和歌集を編集した。

③ 明治時代、人間は皆平等であると唱え、自由民権の考えに大きな影響を与えた。

④ 江戸時代、蘭学がおこったころ、日本の古い書物を研究する国学という新しい学問もさかんになった。

⑤ 平安時代、世界最古の長編小説。のちのちの小説の手本とされた作品。

A 大伴家持 B 清少納言 C 紫式部 D 福沢諭吉 E 紀貫之 

F 松尾芭蕉 G 宮沢賢治H 本居宣長 I 杉田玄白

ア源氏物語 イ学問のすすめ ウおらが春 エ古事記伝 オ万葉集

カ古今集 キ奥の細道 ク雨ニモマケズ ケ解体新書

二 次のA群の作品につながりのあるものを、B群、C群から一つずつ選び、記号で答えなさい。

〈A群〉     〈B群〉     〈C群〉

1 二十四の瞳       ア夏目漱石   A 仙人

2 山椒太夫    イ山本有三    B 大石先生

3 坊ちゃん    ウ芥川龍之介   C 吾一

4 杜子春     エ森鴎外     D 赤シャツ

5 路傍の石    オ壺井栄     E 安寿

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 どこかの中学校の入試問題だそうです。一問五点として、百点満点。さて、いったい何点取れるでしょうか。

 今時、こんな程度の低い問題を入試に出題する学校があるでしょうか。受験生の何を調べるのか、まったくなっていないんじゃないですか。これをどこかの教師が出したとしたら、「お辞めなさい忠告したいね。

 この試験で高い点数を取るというのは、どんなことを意味するのか。このような試験を前提にしておこなわれる授業(教育)のねらいはどこにあるのか。また、こんな試験や授業を実施する教師という存在の特質はなんなのか。といったように、さまざまな疑問や批判がわき出てくるような教室の実態ですが、これに打つ手があるのでしょうか。この教室の教師と児童はどんな関係なんですかねえ。中学入試ということは、小6が受験するんですよ。はやいだんかいから、こんなアホみたいな問題を提示されて、まじめにシャカリキになって(それは怖いこと)、その後の成長(脳細胞の)は大丈夫ですか。

 これまでにも何度か、あちこちで言及した大村はまさん。こんなことをいっておられます。

 教室は、生徒を教えながら、教師である私も生徒に教えられながら、生徒が進むとともに、私もその日、何らかの意味で教師として成長する、そういう場所でなければならないと思います。そういう教師の成長ということのない教室というのは、いろいろ骨を折ってみても、結局、生きた教室にはならないでしょう。教師である私が何も成長しないで止まっているのに、子どもたちだけ成長させるというわけにはいかないと思います。(大村はま『教えながら教えられながら』共文社刊、1989年)

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 「育つ」「育てる」ということのなかに「育てられる」という部分がなければ、なにも育てられないね。「育てられる人」と「育てる人」は、どこかで「育てあっている」んでしょうね。ぼく育てる人が、もう育ち切った人であるなら、どうして誰かを育てられるんですか。これは、ぼくの積年のテーマ(主題であり宿題であります)となってきました。親子でも夫婦でも同じじゃないですか、その関係は。

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 大村村さんに生部、といいます。それはどんなことを言うのでしょうか。彼女のいいところを受け入れる、あるいは自分がいいと思ったところを自分のものにしようとすること。まあいろいろな言い方ができるし、どれも間違いじゃないでしょうが、ぼくはこのように考えてきました。大村さん(他のだれからでも)に学ぶというのは、彼女が自分の「方法」を発見し発掘し、ついに自分自身の方法としたのはどのようにしてであったか。大村さんが大村さんである、その方法をいかにして見つけたか(育てたか)、そのようにして「ぼくも」「わたし」も「自分の方法」を発見し発掘し、育て上げるように努める、うまい表現じゃありませんが、ぼくはそのように考えてきました。模倣することでも、亜流に甘んじるんでもない。自分が自分でである、自分になるための方法、自分流の方法を見つけるためには「先人」が欠かせないんですね。先人に学ぶ、先達に習う、そのための学習(研究)なのではないでしょうか。

 山の学校けふはよき日の旗をあげ (山頭火)  

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)