嘗めて来し生の苦杯の終りかな

 「獄中手記(何が私をこうさせたか)」

 《 此の手記が裁判に何等かの参考になつたか何うだかを私は知らない。しかし裁判も済むだ今日判事にはもう用のないものでなければならぬ。そこで私は、判事に頼むで此の手記を宅下げしてもらふことにした。私はこれを私の同志に贈る。一つには私についてもつと深く知つてもらひ度いからでもあるし、一つには、同志にしてもし有用だと考へるならこれを本にして出版してほしいと思つたからである。

 私としては何よりも多く、世の親たちにこれを読むでもらひ度い。いや、親たちばかりではない社会をよくしようとして居られる教育家にも、政治家にも、社会思想家にも、凡ての人に読むでもらひ度いと思ふのである 》(金子ふみ子『獄中手記 何が私をかうせたか』増補決定版、黒色戦線社。1972年)

 金子ふみ子。学校に自分をあずけられなかった人間が、どのように生きて死んだかをたどってみる、そこからどんな生き方が見えてくるか。学校に行くのが当たり前だとされる時代に生きているぼくたちには、学校に行かなかった、行けなかった人の心情を想いはかることはとてもできそうにありません。反対に、学校に行かなかった、行けなかった人の側から見れば、いったい学校ってなんだろうという疑問がすけてみえるかもしれない。

 学校にはほとんどいけず、肉親の愛情を浴びることもなかったひとりの女性が二十三年の生涯をどのように歩きつづけたか、今では想像を絶する「生き方の流儀」だったとおもわれます。家庭からも学校からも捨てられたとき、人はいかにして生きていこうとするのか。時代の波をかぶり、時代の波に棹さすことをしないで生きていこうとすると、人はどこまで自分を追い込んでしまうのか。

 学校教育の階梯を昇っていくことが人生の大事なら、誕生の瞬間において、そこから外れてしまうというのはどういうことだろうか、金子ふみ子の生涯をたどりつつ、ぼくはいつでも同じところにたちすくんでしまうのです。

 親からも教師からも教えられる、また、たくさんの本を読んで教えられる。それが学ぶことの常道であるとするなら、その方途を奪われた人間にはどのような学び方が残されているのだろうか。彼女は人からも書物からも教えられなかった。一面ではまことに不幸であったが、他面では、だからこそ自力でしか歩くことはできなかったのです。

 《 地上における自然的存在たる人間としての価値から言えば、すべての人間は完全に平等であり、従つてすべての人間は、人間であるというただ一つの資格によつて、人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております》  

 《本来平等であるべき人間が、現実社会にあつていかにその位置が不平等であるか。私はこの不平等を呪うのであります 》(同上)

 彼女は「教育」さらには「学校」というものを深く「学びなおす」きっかけを与えてくれたという意味で、ぼくにはかけがえのない存在でありました。本から学び、教師から教えられて、彼女は何かの知識を得たのではなかった。まったく自己流に、自分流の学び方で生きた人、それがふみ子という女性の生涯でした。それ以外に生きる余地はなかったからだ。彼女が歩いた茨の道、それは薄幸の女性がこの世に残した稀有な思想になった。

 「手記」の中で、ふみ子は次のように述べています。

 「私はその時もう七つになつて居た。そして七つも一月生れなので丁度学齢に達して居た。けれども無籍者の私は学校に行くことが出来なかつた」

 「何故私は無籍者であつたのか。表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入つていなかつたからである。が、何故母の籍がそのまゝになつて居たのか。それについてずっつと後に私が叔母からきいた事が一番本当の理由であつたやうに思ふ」

 「叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯をつれ添ふ気はなく、いゝ相手が見つかり次第母を棄てるつもりで、そのためにわざわざ籍を入れなかつたのだとの事である。…兎に角、さうした関係から、私は七つになる今までも無籍者であつたのである」(同上)

 金子ふみ子は獄中で多くの短歌を生みだしています。そのいくつかを、参考までに。

 ペン執れば今更のごと胸に迫る我が来し方のかなしみのかずかず

 空仰ぎ『お月さん幾つ』と歌いたる幼なき頃の憶い出なつかし

 朝鮮の叔母の許での思い出にふとそゝらるゝ名へのあくがれ

  六才にして早人生の悲しみを知り覚えにし我なりしかな

 一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

 意外にも母が来たりき郷里から獄舎に暮らす我を訪ねて

 嘗めて来し生の苦杯の終りかななど思はれてそゞろ笑まれき (文子歌集より)

 日本が朝鮮を植民地として直後に、事情があって朝鮮半島に渡った金子ふみ子は、彼の地で想像を絶する生活を余儀なくされたのだった。そのような地獄の生活から、朝鮮の人びとと同じ苦しみを味わい、それを終生忘れなかったところに、彼女の悲哀が生まれたといえるし、それはまた、ぼくたちにとってはひとつの光明ともなったのです。

 日本と朝鮮半島の見過ごせない関係(それは一方的に日本国家によってもたらされたものです)、それをはっきりと知るためには金子ふみ子の生き方は最良の示唆をあたえてくれるはずです。(朝鮮半島にある墓)(朴烈の縁者が埋葬)(ふみ子さんの埋葬は「栃木刑務所の無縁墓地にあった)

《 彼女は、明治、大正、昭和の三代の国家理想に背をむけて生きた。その生き方は、なにかの本で読んで選んだものではなく、誰かに教えられたものでもない。彼女が、生まれて育つうちに、自分で身につけたものである。彼女が彼女らしく生きてゆくあとから、彼女の歩いた道として、その思想が、われわれに残された 》(鶴見俊輔)

 彼女に関してはまだまだ描き切れていません。何年も前から原稿用紙に書き連ねてきて、いったい何枚なったか。一冊の本にでもと考えたりしながら、彼女の生き方を調べてきたのでした。(でも出版するのは、ぼくの目的ではない)金子ふみ子が生きた時代や社会、それはどんなものだったか。いうまでもなく、ぼくたちが生きている時代や社会と何か質の違いがあるとは思われない。一人の人間が生まれた瞬間、その運命は決まっているのでしょう。ふみ子さんの場合はあまりにも無残な両親のヤクザな生き方が、彼女のその後に決定的な影響を与えてしまったというべきでしょう。横浜管内の警官だった父親は、母を捨てた後、母の妹と関係します。その後もでたらめな生活は止まらなかった。母親にしても、六歳のふみ子さんを、三島のお茶屋に売ろうとしたり、ふみ子さんを捨てて郷里に帰り、土地の男と所帯を持ちます。生涯にわたって誰かに頼ってしか生きられない女性でした。

(とまあ、書き残された部分は多いので、機会を見つけて書き続けたいと考えております)

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