いとおさなければ籠に入れて養ふ

 かぐや姫はだれだったか  
 近年はまったく「かぐや姫」ははやりませんね。南こうせつもどうしたことか。「あなたは、もう忘れたかしら」 (左写真は2019年度「かぐや姫クイーンとかぐや姫」(富士市主催)(今年はコロナ禍のために中止か)

 ぼくは昔からこの「竹取の翁」(「竹取物語」)の話が好きでした。ここにはいろいろなことがいっぱいつめこまれています。大きく言えば、「日本」や「日本人」の「文化」を考える根っ子がたどれるのではないかとさえ思ってきたほどです。「日本」や「日本人」のルーツをさぐる一つの手がかりがあると思っているんです。

 いくつもの「竹取の物語」

 その①「昔老翁ありき。号を竹取の翁と曰ひき。此の翁、季春の月にして、丘に登り遠く望むときに、忽ちに羮(なます)を煮る九箇の女子に値ひき」(万葉集・卷十六)
 その②「今は昔、□□の天皇の御代に一人の翁有けり。竹を取て籠を造て、要する人に与へて其の功を取て世を渡けるに、翁籠を造らむが為に篁に行き竹を切けるに、篁の中に一の光り、其の竹の節の中に三寸許なる人有」 (今昔物語・卷三十三)
 その③「むかしむかし駿河の国に、一人の爺がありました。山で竹を伐って来ていろいろの器を作り、それを売って渡世にしていたので、竹取の翁といい、また箕作りの翁とも古い本には書いてあります。この箕作りの翁はある日竹林に入って、鶯の卵が巣の中でただ一つ、ことに光輝いているのを見つけました。…今はとて天の羽衣きる時ぞ君をあわれと思い出でぬる」(海道記)
 その④「いまは昔、竹取の翁といふもの有りけり。野山にまじりて竹を取りつゝ、よろづの事に使ひけり。名をば、さかきの造となむいひける。其の竹の中に、もと光る竹なむ一筋ありける。あやしがりて寄りて見るに、筒の中光りたり。それを見れば、三寸ばかりなる人、いとうつくしうてゐたり。…いとおさなければ籠に入れて養ふ」(「竹取物語」)
 その⑤「さるほどに、時移って、天の羽衣、浦風に棚引き棚引く、三保の松原、浮島が雲の、愛鷹山や、富士の高嶺、幽かになりて、天つみ空の、霞に紛れて、失せにけり」(謡曲「羽衣」)


 「かぐや姫」の説話は東南アジア、特に海洋民族のなかに広くみいだすことができるそうです。おそらく、いつとは知れぬ大昔に、大潮の流れに乗って南方地域から、この列島にたどり着いた人びとがいたに違いないのです。彼や彼女たちは、とうぜんのことながら、自分たちの生活・文化(生活の仕方のすべて)をたずえてやってきたはずです。

 元来、竹は国産ではありませんでしたので、竹にまつわるさまざまな生活様式も、その人びとがもち伝えたものだったでしょう。いまでは明らかになりましたが、醤油や味噌、お茶やお寿司、さらにいえば、米までも日本産ではなかったのです。

 「うるわしき日本の文化」とは、どこかからもたらされたものだったんですね。さらにいえば、そのような人びとがこの島に住み着くにつれて、もともと住んでいた人びとや、その後に渡来してきた人びとと多くの点で摩擦を起こすことになりました。そこから、後に「日本」と呼ばれ地域の歴史が始まったといってもいいでしょう。

 「竹取物語」のかぐや姫は最後には天に戻っていくのですが、この姫になぞらえられたのが「コノハナサクヤビメ(木花咲耶姫命)」でした。彼女はこの島々を支配する国津神(クニツカミ*)の娘でありました。このクニツカミは、その後には海の神(海神・ワタツミ)にもなりました。

(*くにつ-かみ 【国つ神/〈地祇〉】天つ神に対して、日本の国土に土着する神。地神。「―は高山の末・短山(ひきやま)の末に上り坐して/祝詞(六月晦大祓)」)

(あまつ-かみ 【天つ神】 天上界にいる神。また、天から下った神。)

(*大山祇神(おおやまつみのかみ)日本神話で山を支配する神。のち海・山の神となる。伊弉諾(いざなぎ)尊・伊弉冉(いざなみ)尊の子。また火の神の子とも。娘に石長比売(いわながひめ),木花開耶(このはなのさくや)姫がある。大山祇神社,三島大社にまつる。(マイペディア)

 コノハナサクヤビメ神話は『古事記』によればつぎのような物語になっています。


 天降ったニニギノミコトは南九州の笠沙(かささ)の岬でオオヤマツミのうつくしい娘コノハナサクヤビメに出あった。ニニギは父のオオヤマツミに姫を妻にくれるよう申しこんだ。オオヤマツミはよろこんでコノハナサクヤビメに姉のイワナガヒメを添えてさしあげた。しかし、みにくい姉をきらったニニギはこれを送りかえし、コノハナサクヤビメと結婚した。

 オオヤマツミはひどく恥じて、「イワナガヒメをさしあげたのは天神の寿命が石のように不変であるようにという気持からです。コノハナサクヤビメを贈ったのは木の花がはなやかに咲くように栄えませという願いからです。姉をお返しになったために、天孫のお命は木の花のようにはかなくおなりでしょう」と申しあげた。このことによって天皇の寿命は長久(長命)ではないのだといわれます。 (右下写真は富士山頂上「浅間神社」コノハナサクヤビメが祭られている)

 この神話の原型とされる神話は東南アジアを中心に世界中に分布しています。その典型を、中央セレベスのポソ地方のトラジャ族がつたえる神話によって紹介します(大林太良『神話と神話学』大和書房・1975年)。(つづく、ひょっとしてエンドレスかも)

 小声で(自分に)白状すれば、この一か月ほどかなりつらいことが連続して生じてきました。もう終わりやと思いたいのですが、まだわかりません。この際は、困ったときの「かぐや姫頼み」で、こんな始末になっています。「自主トレ」の駄文・雑文の山ですが、我ながら気が引けてます。気持ちを切り替えてとはまだ行かないけれど、気は確かに、自主トレに励みまっさ)

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 しきしまの大和の国は…

 前回のつづきです。

 どのような観点から「劣島の文化」をとらえたらいいのか、この点に関してはさまざまな見方やとらえ方ができます。これしかないというかたよった立場を取らないようにして、すこしばかり日本の政治風土というものの背景(歴史)を考えてみようというわけです。

 いつの時代であれ、いきなり「日本文化」というものが出現したはずはありません。また、後に日本劣島と呼ばれるようになるいくつもの島々にはおよそ十万年以前に人類が住んでいたといわれています。その後、少しの間隔をおいて徐々に島々に人々が集まって住みだしたのです。もちろん、まだそれが「日本劣島」と呼ばれていたわけでもなければ、「日本人」が存在していたということもできません。日本も日本人も日本海も日本大学も、つまり日本文化というものはも、ごく近間・近年の造作物なんです。

 おそらく国号「日本」が作られた(使われた)のは七世紀以降のことで、そのときただちに「日本人」が生みだされたのでもないのです。その当時は外国(随・唐)から「大和」(倭・ヤマト)などと呼ばれていましたが、「(のちの)日本」以外の国が存在してはじめて国名が必要となるのです。近隣の諸国が「倭」と呼びならわしていたのが、ずいぶん後に「日本」となったのです。「日の本」(太陽の出るところ)と、自分自身のことを言い表しました。

 「日本劣島」に住んでいるぼくたちは「日本語」を話し、「日本の学校」に通い、「日本の文化」を身につけている、だから「日本人」ということになっていますが、もともと「日本国」があり「日本人」がいたわけではなく、したがって「日本文化」というものがあったわけではないのです。有史以来といいますが、ずっと名無しの権兵衛・権子(ごんこ)だった。でも確かな生活の歴史は続いていたのです。

 「日本」とは7世紀以降、《小帝国を志向し、東北・南九州をふくむ周囲の地域に対して侵略によって版図(はんと)をひろげることにつとめた、いわゆる「律令国家」の確立したとき、その王の称号「天皇」とセットで定められた国号》(網野善彦)なんです。

しきしまの大和の国は 
言霊の 
さきはふ国ぞ 
まさきくありこそ
 
     万葉集巻13-3254 柿本人麻呂 

 有史以前の「国盗り物語」

 「天孫降臨」神話~これは日本だけのものではなく、おとなりの韓国にも同じ輪郭・骨組みをもった神話が存在しています。ひょっとしたら同根かも知れません。

 天から天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫が降りてくる以前に、劣島を支配していた神々がいました。それがオオヤマツミであり、クニツカミでした。さらには海を支配していたワタツミ(海神)もいました。したがって、アマテラスの孫が「降臨」してからはそれらの神々と国の支配権をめぐる戦いが始まり、ついにはアマテラス一派が勝利を収めるという、国盗り神話になるのです。

 それは、奈良(大和)朝廷がこの劣島のあちこちに住んでいるさまざまな人々を従えるための闘いの歴史でもありました。その中には「隼人」(はやと)もいましたし、「熊襲」(くまそ)もいましたし、「蝦夷」(えみし)も「アイヌ」もいました。

(くま‐そ【熊襲・熊曾】上代の九州南部の地域名。記紀などにみえる種族。九州南部に勢力を張り、勇猛で大和朝廷に反抗したが、景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)に討たれたとされる。「くま」は肥後の球磨(くま)地方、「そ」は大隅(おおすみ)の贈於(そお)地方の意という。)(えみし【〈蝦夷〉】「えぞ(蝦夷)」の古名。)

(アイヌ・《アイヌ語で人の意》北海道・樺太(からふと)(サハリン)・千島(クリル)列島に居住する民族。狩猟・漁労・採集を主とする自然と一体の生活様式をもち、吟誦形式の叙事詩ユーカラが伝わる。室町時代から和人との交渉が生じ、江戸時代には松前藩や商人などに従属を余儀なくされ、明治以後は同化政策のもとで言語など固有の慣習や文化の多くが破壊され、人口も激減した。)

● 天孫降臨(てんそんこうりん)神話=天皇家の由来と古代国家の起源に関する神話。6~7世紀の成立とされる。古事記・日本書紀によれば,天照大神(あまてらすおおみかみ)が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に神宝(三種の神器)を与え,天壌無窮の神勅を発し,天児屋(あめのこやね)命などの神々を供に高天原から日向(ひむか)の高千穂峰に降臨させたという。天皇家の絶対的神聖化を意図する神話で,天壌無窮の神勅は敗戦まで日本の国体の基礎をなすものとされていた。(マイペディア)(写真左は宮崎瓊瓊神社)

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 宣長さんが著した『古事記伝』によって、ようやくこの島が歴史時代に入る前に、どんなことが行われていたかを含めて、「ふること」(古代の事績)が明らかにされたとも言えます。およそ三十五年の年月をかけ、医者の傍ら「古事記研究」を続けた。どうしてか、話せば長い物語ですが、要するに、『古事記伝44巻』は、まず「日本書紀」を読み、賀茂真淵に私淑し、古道・古学(それは宣長流国学となる)に打ち込む決意を決めた、彼の情熱のなせる偉業でした。今日、ぼくたちが「古事記」を何とか読めるようになったのは宣長先生のおかげでした。(それは、この雑文の主題とは違いますので、ここで中止)

 次回からは、日本の昔話を。「桃太郎」「浦島太郎」「竹取物語」などなど。奇想天外というか、荒唐無稽というか。それをまじめに信じていた時代や人々(大人たち)がいたんですね。宣長さんはどうでしたか。今は昔の…。

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 実をとりて 胸にあつれば 流離…

  のっけから、自問自答です。主題は文化(culture)について、です

 質問1・「文化」という言葉をきいて、どのようなことを想像(連想)しますか。

 質問2・文化という語に対して、どんな語が対応(対語)しますか。

 質問3・刃物の種類に「包丁」があります。どういうわけだか「文化包丁」などとといわれます。なぜでしょうか。また文化住宅や文化鍋などともいいますが、その共通する意図は?

 今では、この島のいたるところに「文化会館」が林立しています。「文化」があふれそうだから、建物内に閉じ込めようという魂胆か。中に入ると、空虚だったり。(東京上野の東京文化会館、いったい何回通い詰めたか。前川国男設計)

 正解はありそうでなさそうで。なんとでも言えますからね。さて、「文化」とは?

 その包丁です。「中華包丁」。これを日本の包丁とくらべてみれば、種類の少なさが顕著に認められます。その理由はどこにありますか。耕作につかう農具も大工道具も、日本ではやたらに数が多い(ノコギリでもカンナでも、カマでもクワでも)のに対して、お隣の韓国や中国さらには東南アジアの諸国では実に単調なものです。そのちがいはどこから来るのかという問題でもあります。「文化」をとらえる視点を外さないようにしたいですね。(右写真は住まいから車で三十分ほどの田んぼの中にある「文化会館」、森閑というか、閑散というか。散散といいますか。入るのが怖いよう。「8月のおはなし会」の案内が。これも立派な「文化」か)

日時 2020年8月22日(土曜日) 10時30分~
場所 文化会館 和室
対象 幼児から小学生向けです。 大人も参加できます。
参加人数 20名まで
受付 電話受付先着順
主催 長生村読み聞かせボランティア「くりくりブック」
お問合せ 長生村文化会館 長生郡長生村岩沼2119番地
TEL 0475-32-5100

●今も昔も漢語(中国語)で「庖」は「台所」を意味する。一方で、古代の漢語における「丁」は、担税を課することに由来して「召使としての成年男性(※古代中国の律令制で成年男性に該当するのは、数え年で21歳から60歳までの男性)」を意味し、「園丁」や「馬丁」という熟語があるように「その職場で働く成年の召使男性」の意味合いで用いられていた。したがって、「庖」と「丁」の合成語である「庖丁(拼音:cìdīng、páodīng、ほか)」は「台所で働く成年の召使男性」を指すものであった。日本語「庖丁/包丁」の語義の一つには今も昔も「料理人」「料理役」「料理番」があるが、刃物のことではなくこれこそが最も古い漢語の語義の流れを引き継いでいると言える。(wikipedia)

 「日本文化」という場合、いったいどのようなことがいわれるのでしょうか。今から何万年か前(十万年前とも)に、この列島に住み着いた人々がいたことはたしかですが(集住するようになったのは三万年前くらいとも)、そのような人々が、それこそ「万世一系」(永久に同一の系統の続くこと。特に皇室についていう)をつらぬいて、現在に至ったとはとても考えられない。(今日の「万世一系」はたかだか数世代程度か)
 その一例ですが、竹を材料にして、このことを考えてみましょう。元来、竹は(亜)熱帯地方の植物ですから、この(日本)列島には自生していなかった。だから、いつの時期にか、南方の民族が舟(船)に乗ってはるかに離れた東の列島(日本)に流れ着いたと考えてもいいでしょう。まるで「椰子の実」のように。(今ではこの島はれっきとした「熱帯」地方となった感があります)「竹取物語」も「浦島太郎」も潮の流れに乗って、「なれはそも波にいく月」かけてか、漂着したのか。

   椰子の実

  名も知らぬ遠き島より
  流れ寄る椰子の実一つ
  故郷の岸をはなれて
  なれはそも波にいく月
  
  もとの樹は生いや茂れる
  枝はなおかげをやなせる
  われもまたなぎさを枕
  ひとり身のうき寝の旅ぞ
  
  実をとりて胸にあつれば
  新たなり流離のうれい
  海の日の沈むを見れば
  たぎり落つ異郷の涙
  思いやる八重の汐々
  いずれの日にか国に帰らん (島崎藤村作詞・ 大中寅二作曲)

  柳田国男という日本民俗学を生み出したといわれる人は、まだ二十歳になる前に、大きな病気をし、愛知の伊良湖岬に養生のために、しばらく滞在したことがありました(1898年)。散歩にはよく伊良湖海岸に出かけたといいます。ある時、海岸に今着いたばかりというような青々として椰子の実が流れ着いていた。彼はいろいろなことを考えたそうです。この想像力が、最晩年に書き上げられた『海上の道』という著作に連なっていくのでした。 

 遥かに昔、我々の祖先となった人々は小さな、丸木舟(だったろう)で何度も何度も挑戦し、荒い潮の流れに乗って、のちに「日本列島」と称される島々を目指した(かどうか、わからないが)という。何度失敗しても次々と代を次いで小舟で小さな島を目指した。沖縄を経由して九州のある地方をとおり、ついには本州に到達し、伊良湖にも来たに違いないという仮説です。(愛知とは、アユ、アエルというように、さまざまなものが混ざり合って漂着したところから名付けられたというのが柳田説。和え物などという、その「和え」です)

 病が癒えて東京に戻った柳田青年は、この経験を親友の島崎藤村に話したところ、藤村は「これはもらったよ」といって、のちに「椰子の実」という詩を書いた(1901年「落梅集」所収)。それに曲をつけたのは大仲寅二さん(1936年。息子は恩で、「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」など作曲、その詩を書いたのが従弟の坂田寛夫)。柳田さんいわく、「詩人というものは、あんなふうにものごとを考えるもんなのだな」と意外の感に打たれたといいます。

 椰子の実が流れついたのは「海上の道」を流れてきたからだという、柳田さんの仮設は椰子の実を「人民」に変えた。先に述べたように、南方のある民族(人種)がさまざまな生活万般とともに、それに伴う「文化」をこの島に持ち伝えたのだと。米も、歌も、物語も、植物も。つまりは文化(生活様式)といわれるものを携えて渡ってきた。そして、悠久の時の流れを経て、今に至ったのだというのです。この仮説は、今では正しいものとは言えないようですが、いかにも文学感情の多かった、詩情豊かな柳田さんらしい逸話ではありますね。(つづく)

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 傍流こそ、元は本流なんだ

(脱主流派宣言:2)コンビニやめました 客に寄り添う酒屋

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 名古屋市熱田区。熱田神宮へと続く国道沿いに「酒のかしわや」はある。平たい箱のような店の外観に、かつてコンビニエンスストアだった名残をとどめる。/ 店主の丹羽(にわ)義裕さん(71)が大手チェーンとのコンビニ店の契約更新を断ったのは、1996年の春だった。

 「定休日をもうける」/ 「24時間営業はしない」

 15年契約の終了が近づき、更新を持ちかけてきた相手に、丹羽さんはむちゃな条件を突きつけた。休みがあれば、商売の勉強をする余裕ができる。人間は夜、寝るもんだ――。便利さの追求も行き過ぎていないかと疑問を投げかけたが、相手はぽかんとするばかりだった。

 創業明治27(1894)年の老舗。初代は店が焼失した戦災の時に亡くなった。先代の亡父は入り婿の元公務員。3代目の丹羽さんは戦後まもなく再建した店を、幼いころから手伝った。小学校の授業で「将来の家」を描いた時も、酒売り場を入れたほどだ。「おまえは夢も酒屋か」と先生に笑われた。

 地元酒店の若手有志で海外を視察した1970年代に米国で見た光景に衝撃を受けた。四つ角に別々のコンビニ4軒が立ち並び、安売りの量販店に客が詰めかけていた。「日本もいずれこうなる。新しいことに挑戦していかんと」/ 81年、店舗を12坪の木造から50坪の鉄骨に建て替えた際、大通りに面した30坪をコンビニにした。商品や従業員の効率的な管理、考え抜かれた陳列の手法などを吸収したかった。

 コンビニに並ぶ品数は2千~3千点。多品種を扱えるのは、店ごとの売り上げデータを本部で集計することで、売れる分だけ仕入れることができるからだ。賞味期限が近い商品を、棚の前に出すといった小技も指導してくれた。/ 半面、自分で知恵を絞る余地は少ない。似通った品ぞろえ、流れ作業の会計。年中無休で回すため、店に立つのはアルバイトが多くなる。丹羽さんがレジに入ると客と話し込んでしまい、かえって会計が滞る始末だった。/ 「マニュアル通りにやれば簡単。だけど……」

 酒は、違う。/ たとえば「越乃寒梅(こしのかんばい)」。角帽をかぶった学生時代から、名古屋駅を出る夜行で新潟の蔵元に通った。/ 足を運ぶこと4~5回目。雪道で側溝に落ちて水びたしになった。歯を鳴らして蔵元にたどりつくと、火にあたらせてくれた。「まず3箱売りましょう」。取引を認めてもらい、名古屋で最初期の正規特約店になった。/ 酒屋一本の店に戻って18年。500近い銘柄がそろう日本酒売り場で、そうした逸話を交えて客と会話する。定休日には今も、各地の蔵元通いを欠かさない。

 常連客の胡桃沢(くるみざわ)正文さん(65)は、名古屋の郊外から40分かけて買いに来る。「これ飲んでみやー、おいしかったよって。私の好みを知っとるから。こういう店は少なくなったね」

 同じ校区内に17軒あった酒屋は今、3軒だけ。個人商店が消えゆく一方、喫茶店、カレー屋、居酒屋、あらゆる店のチェーン化が進む。そんな時代だからこそ、がんばろうと思う。/ 年の瀬。店には贈答や正月用の酒を求める客が途切れることなくやってきた。年配の夫婦に、丹羽さんが好みを聞き始めた。飲み方はぬる燗(かん)、軽いより深い味わいで。正月だから少し高くてもいいという。/ 見立てた一本は、石川県の純米大吟醸「夢醸(むじょう)」。日本海に近い蔵元の情景、酒造りや酒米をはぐくむ手取川の水、イカ刺しとの相性まで伝えた。/ 「晩酌が楽しみ」。夫婦は笑顔で店を出た。(井上恵一朗)

 ■いまどきニッポン 1号店上陸から40年

 コンビニチェーン最大手「セブン―イレブン・ジャパン」が昨年11月、創業40周年を迎えた。1974年の1号店は、東京・豊洲の酒店が衣替えして誕生した。米国発のチェーンビジネスは今、大手10社だけで5万店に迫る。チケット取引や銀行ATM(現金自動出入機)の導入、生鮮食品販売からいれたてコーヒーの提供まで。高齢者向けの宅配にも乗りだした。あくなき利便性の追求で、社会のインフラとなった。(朝日新聞・14/01/03)

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 コンビニはほとんど利用しない。特別の理由があってのことではない。例えば、大酒を飲んでいたころ、ぼくはコンビニで日本酒を買う気にはなれなかった。(ビールはまず飲まなかった)どうしたはずみか、今ではすっかり下戸。自分でも驚くというより、呆れています。ほしいとは、今のところ思わない。友達が誘うが、まず乗らない。まだ若かった頃(といっても、ぼくは七十前くらいまではほんとによく飲んだ。「嬉しいから、悲しいから」と理屈はいらなかった)「越乃寒梅」には語りたい話がたくさんある。その一つ、この酒が出たばかりで、手に入らなかったころ、新潟出身の先輩が池袋に連れて行ってくれた。「笹舟」という同県出身の大将がやっている店(今はやっていない)で、「幻の酒」が、大型の貯蔵庫から出たのである。コップ一杯、何千円だったか。飛行便でついた鮭を囲炉裏で焼きながら。ちっともうまいとも思わなかったし、その後はこのメーカーが堕落したのか、ひどいものまで「レッテル」を張り付けて売るようになっていた。日本酒なら「黒帯」(純米)一本やり。石川の酒。一升はいけましたね。安いし旨いし。今は昔。

 コンビニで物を買わないのは、便利すぎるのが気に食わないからとでも言いますか。歩いて何分、と都会度を測る尺度のように言われるのはけしからんと。今は山の中、直近のコンビニ店まで四キロさ。それも急坂(鼠坂という)です。かみさんは文句を言いますが。便利は不便で、不便は便利なんだというのが、ぼくの屁理屈。親戚が都会の真ん中に住んでそこを動こうとしないままで、先年旦那が亡くなった。住めば都というが、住んで地獄というのもあるようです。

 二十四時間営業というのも、気に入りません。理由は簡単。夜は寝るように、たいていの動物はできているから。それに反するのはどうも。もちろん仕事の関係で夜勤があるのは認めます。その他、理由はいくらでも見つけられますが、経営の形態がもっとも問題なんでしょう。細かいことは抜きにして、フランチャイズとか何とか云って、本部がまず損しない仕組みはいけません。無駄が出てもそれはすべて「オーナー側」の負担ですと。まるで鵜飼の鵜匠と鵜、それを連想してしまいます。数万匹の鵜と、それを操るごくわずかの鵜匠。これが世界規模で拡散しています。

 川は本流だけがあるのではありません。無数の支流が集められて、奔流になる。逆に支流が支流のままで終われば、本流にはならない。「脱主流」というのは、支流は支流で、という覚悟というか、本来の摂理をとりもどしたということ。これからも、この「流れ」は続く。不自然な状態は、一見盛んに見えても、いつかはうらぶれる。店舗の閉店、新装開店の多さは何を語っているか。

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 「台風19号の大雨で堤防が決壊した140カ所(71河川)のうち、8割にあたる112カ所(62河川)が、支流と本流の合流点から約1キロの範囲だったことが、朝日新聞のまとめでわかった。専門家は「合流点近くに住む人は、浸水が起きやすいことを自覚しておくべきだ」と指摘している。」(朝日新聞・2019年11月7日)

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 お前はどこに行くつもりなんだ

 「自然を支配して生きようとしてきた人間の生き方(人間文明)」に未来があるのかないのか。十年ほど前に見た映画「アフターデイズ」は、まさにその問に対する一つの典型的な解答であったと思われます。地球環境問題を解決するのは造作のないこと、人間が地球からいなくなるだけでいい、と。たしかに地球には人間はいらないかもしれない、しかし、人間には地球以外に行く場所が(今のところ?)ないのだから、始末に悪い。ここにしか住めないにもかかわらず、この環境を荒廃させることに奔走している人間たちの悪行はどうすれば止むのか(自分さえよければ、今さえ快適ならばという利己主義と刹那主義の産物)。その悪行もまた「科学・技術」文明というのなら、文明とは野蛮そのものであることがわかろうというもの。

 これもずいぶん昔、ドイツの政治家の著書『収奪された地球』をむさぼり読んだことをも思い出しています。彼は当時の「緑の党」の創立者だったように記憶しています。もっと前にはローマクラブという、今でいうところのNPOのような団体が出した報告書(「成長の限界」)も、資源の限界を中心に「経済成長」の先行きに警鐘を鳴らしていました。

 こんなよしなしごとを考えるともなく時間をつぶしているとき、日高敏隆さんのことを思い出した。動物行動学とかいう分野のパイオニアで、ぼくは素人として何かと興味を以て読んだ。無駄と知りながらため込んでいた中から、日高さんの「訃報」記事を二つばかり取り出してみる。

 日高敏隆さん死去

 チョウはなぜ飛ぶか。ネコはどうしてわがままか。いずれも先日亡くなった動物行動学の草分け、日高敏隆さんが書いてきたエッセー集の題名だ▼文庫などが書店に並んでいるので読んだ人も多いだろう。生き物の行動観察を通して、自然界の営みの不思議さがタイトルの響きのように軽やかで平易につづられている。読後に、さわやかな幸福感が残る▼本紙のコラム「天眼」では10年以上も健筆を振るった。読み返すと、地球環境問題への言及が多い。問題の根源は「自然を支配して生きようとしてきた人間の生き方(人間文明)にある」(2008年1月19日付)とし、効率を重視する人間の価値観を変えていこうと説いた▼その考え方を、日高さんは単なる環境保護ではなく生活の向上もあきらめない「未来可能性」と名づけた。自ら初代所長を務めた総合地球環境学研究所(京都市)で、その理念を実践する研究プロジェクトを立ち上げた▼京都大を退官するとき江戸っ子の日高さんに里帰り話も持ち上がったが「関西には学問をする風土がある」と見向きもしなかった。滋賀県立大学長を引き受けて後進育成に力を注ぎ、京都市青少年科学センター所長として子らに科学の面白さを語った▼数々のエッセーそのままに温かで軽妙洒脱(しゃだつ)な人柄だった。取材の折には本題より脱線話が楽しみだった。最後となった24日付朝刊の「天眼」をしみじみ読んだ。(京都新聞「凡語」・09/11/25)

 余録:日高敏隆さん

 「何か不思議なことを見つけてきなさい」。先ごろ亡くなった動物行動学者の日高敏隆さんは野外調査に向かう大学院生をこんな言葉で送り出したそうだ。「動物は自ら学ぶようプログラムされている」が持論で、学生の自主性を尊重した自由人らしいエピソードだ▲その日高さんが昆虫学を志したきっかけは軍国的な教師によるいじめ。体が弱く、戦前の小学校で「お前なんかお国の役に立てない。死んでしまえ」と怒鳴られた。仮病を使って学校をさぼり原っぱで遊んでいると、1匹のイモムシがいた▲「お前はどこに行くつもりなんだ」と話しかけると、しばらくして葉っぱを食べ出した。「そうか、それがほしかったのか」。虫の気持ちが分かった気がし、無性にうれしかった。このときの喜びが、研究生活の原動力になったという▲東京農工大学の助教授時代、「先生の研究は農民の役に立たない」と左翼学生に批判された。「それならば」とモンシロチョウの研究を始めた。「こいつらキャベツの害虫だろ。ならば農民の役に立つ」という理屈だが、手がけたのは「オスはいかにメスを探すか」の実験だった。すぐには役立ちそうもない▲役に立つより不思議を追求し続けた生涯だったが、若い研究者には「専門用語でばかり語るな。異分野の人にもオモロイと思わせなきゃだめ」と諭していた▲「費用対効果は?」「削られれば国際競争から脱落する」。科学研究費を巡る攻防は政治判断に委ねられたが、気がかりなのは交わされた言葉の殺伐さ。「研究費の申請で、『オモロイ』と審査員をうならせれば勝ち」と話していた日高さんなら、どう切り返しただろうか。(毎日新聞・09/11/30)

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 科研費の話が出てきましたが、ぼくにも経験がある。いわば税金だから、自分自身では一円も申請しなかった。グループで受けたことは何度かあるが、出したテーマは「オモロイ」という領域にはとても達していなかった。有用か無用か、役に立つか立たないか、利益を産むか産まないか。いまもなお、効率主義とか利益主義などという尺度でしか判断しない風潮は根強い。だから、今あるエネルギー源を使い尽くそうという魂胆が消えないのです。(コロナ禍の状況下でさへ、経済を回すとか回らないとか、人命のかけがえのなさを脇に置いてもなお、こんなことを言っている)「成長」を追っかける背伸びの処世術は誰彼の心の中にまで浸透しきってきた。べつに日高さんにかぎらないが、「無駄の効用」こそが意味を明らかにする時が必ず来る。目先の利害に目がくらまなければ、きっと「無駄の意味」が生きて花が開くのだ。人生もそうです。無駄な人生など、一つもないね。

 花火があがる空の方が町だよ(放哉)

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 みかんの花咲く丘

 すべての被爆者を冒涜し、広島を売り、日本を売る、安売りマーケットの店じまいです。「広島サミット」なる催しが終…

 これからもハガキは金券ショップで

 年賀はがき「自爆営業」 局員、ノルマ1万枚さばけず 【牧内昇平、奥村智司】「年賀状買い取り42円」

 今月1日夕、首都圏の金券ショップに貼られた値札を、両肩にそれぞれリュックサックをかけた30代の男性がみつめていた。リュックには、その日売り出された年賀はがきが、3千枚以上詰まっている。

 男性は、中部地方に住む日本郵便の非正規社員。上司から年賀はがきの販売ノルマをつきつけられていた。配達の合間に客に買ってもらうものだが、売り切れない分は、自費で買い取る。「少しでも自腹の負担を減らしたい」。首都圏の金券ショップは地元より買い取り額が10円近く高い。新幹線を使ってでも持ち込む「価値」がある。/ 2600枚を店員に渡し、10万9200円を受けとった。通常の50円との差額の計約2万円は自費になるが、「しょうがない」。残りは自力で売る覚悟だ。/ 同じ日、長崎県内に住む30代の正社員男性は、4千枚を北海道の金券ショップに宅配便で送った。「足がつかないように」と遠方の店を選んだ。店の買い取り額は1枚40円。4万円の損になる。数年前から毎年4千枚を買い、転売する。職場では1万枚の「目標」が示され、約100人の社員の8割が達成する。「多くが自腹を切るからだ」/ 販売ノルマを達成できず、自費で買い取る行為は「自爆営業」と呼ばれる。ノルマに悩む局員の一部で慣習になっている。買い取ったはがきは、金券ショップやネットオークションで転売している。/ 日本郵便の親会社、日本郵政は2015年に予定する株式上場に向け、コンプライアンス(法令順守)を強化。「自爆営業」については今年度から、金券ショップの見回りなど防止策をとりいれた。だが、状況は変わっていない。

■上司から「給料泥棒」

 【牧内昇平、奥村智司】郵便局員たちを「自爆営業」に駆り立てるのは何か――。厳しいノルマと、上司からの圧力だ。/ 「実績の低い者は給料泥棒だ」「営業やらんかったら、辞めてくれて構わない」。首都圏に年賀はがきを売りに来た中部地方の男性は、来年用の販売の予約受け付けが始まってから毎朝、上司からハッパをかけられた。/ 雇用契約を半年ごとに更新している男性には、「売らなければクビ」と聞こえた。数年前には上司から呼び出されて叱られ、「なんとしても売ります」と誓約書をかかされた経験もある。/ だが、ふだんは配達で精いっぱい。毎年買う客は、古参の社員がすでに予約をとっている。新規開拓で予約をとれたのは1世帯50枚だけ。月収は手取りで16万円ほどで「自爆」の出費は苦しいが、「働き続けるには他に方法がない」。/ 年賀はがきの販売目標は、前年の実績をもとに全国の郵便局に割り振られている。多くの局では、局の目標枚数を社員数で割り、ノルマを設定しているとみられている。

 各地の郵便局員によると今年、埼玉県のある局では配達担当の正社員、非正規社員に7千枚のノルマが課された。奈良県のある局では正社員8千枚、非正規6千枚だった。西日本地区のある局の班長は1万3500枚だった。暑中見舞いはがき(かも(註 鴨)めーる)やギフト商品の物販にも、ノルマが設定されているという。/ 千葉県の非正規社員の40代男性は、毎年1千枚ほどの年賀はがきを自費で買い取る。「ふだんの営業でさばけるのはせいぜい300枚。ノルマの10分の1にもならない」。おおかたは親戚に贈り、残りは使い道がないので自宅に放置している。/ 上司に見つかりたくないので、金券ショップには持ち込まない。「毎冬、定期的に減給されているようなもの」と憤る。/ 福岡県の正社員だった男性(52)はノルマ達成を求められ、うつ病になった。1万枚のノルマに対し、自力で売れるのは4千枚。「心も体もぼろぼろ」。昨春、約30年勤めた郵便局を辞めた。/ 人事評価への影響をちらつかされた人もいる。福岡県の50代男性の非正規社員は昨年、上司から「(ノルマを)達成しないと査定に影響する」と言われた。非正規で働いていた同県の女性(39)は、かもめーるの目標未達成を理由に時給を下げると言われ、退職した。

■収益、年賀はがき頼み

 【伊沢友之】「民営化に向かう過程で自爆営業が広がった」。首都圏の郵便局で20年以上働く正社員男性は話す。年賀はがきのノルマは2000年ごろまで1人1千枚ほど。未達成でも上司から叱られなかった。

 郵政が民営化に向かうここ10年の間にノルマは増え、いまは4千枚に。達成への要求も激しくなり、「自爆しないとノルマが達成できない状況だ」。/ 背景には、年賀はがきのもうけに頼る日本郵便の収益構造があると言われる。年賀はがきの年間売上高は約1500億円。郵便事業全体の1割ほどだが、短期間で大量にさばけ、収益性も高い「ドル箱」だ。ゆうパックなどほかの部門の赤字を、年賀はがきのもうけで埋めてきた。/ だが、年賀はがきの販売枚数は急減。日本郵政グループの職員でつくる労働組合の一つ「郵政産業労働者ユニオン」の日巻直映・中央執行委員長は、「会社は販売枚数を維持したいため、過剰なノルマを課している」とみる。/ 日本郵便広報室は自爆営業の存在は認めたうえで、「販売目標は適切で、達成できない場合の罰則もない」と説明する。/ 自爆営業については今年度から対策に乗り出したばかり。朝日新聞が入手した内部資料によると、「不適正営業の撲滅」などとして、金券ショップの定期的な見回りを実施。転売されたはがきのくじ番号を調べ、転売職員を特定する。また、厳しいノルマがあった場合の「内部通報窓口」の周知を徹底させるという。実効性は未知数だ。/ 親会社の日本郵政首脳は朝日新聞の取材に、「金券ショップに出回るということは、販売のどこかに無理があった。対策を打ったつもりだが残念だ」と答え、追加対策の必要性を示した。 (朝日新聞・13/11/17)

官房長官、総務省に注視要請 年賀はがき「自爆営業」

 官義偉官房長官は18日の記者会見で、販売ノルマをこなせない郵便局員が年賀はがきを自費で買い取る「自爆営業」について「無理なく正常、適切な営業が行われるよう総務省にも注視させたい」と述べた。朝日新聞が17日付朝刊で実態を報じていた。/ 菅氏はさらに「無理な販売促進はあってはならないと(日本郵便の親会社の)日本郵政も認識していると報告は受けている。新聞報道があったので、総務省でしっかり注意してほしい」と語った。(朝日新聞・13/11/18) 

  自腹を切るという言葉はもう死語になったのかしら。「自爆営業」とは人間がする(にさせる)営業ですか。まさしく「特攻隊」です。 

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● 郵政民営化=旧郵政省から継承して日本郵政公社が運営していた郵政三事業(郵便・簡易生命保険・郵便貯金)と窓口サービスを国から民間会社の経営に移行すること。平成17年(2005)に成立した郵政民営化法に基づき、平成19年(2007)10月に実施され、日本郵政グループ5社に分社化された。郵政事業民営化。→日本郵政株式会社 →郵便事業株式会社 →株式会社ゆうちょ銀行 →株式会社かんぽ生命保険 →郵便局株式会社[補説]民営化の見直しに伴い、平成24年(2012)10月に郵便事業株式会社と郵便局株式会社が統合し、日本郵便株式会社となった。(デジタル大辞泉の解説)

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 何のための郵政民営化だったか。今では郵便局(会社)でアメリカの保険会社(アヒル)の保険を売っています。(売らされているというのが正確化)郵貯や簡保の有する資本を開放するためというのが大義名分でした。結果は日本郵便という「大会社」が誕生した(させられた)。

  自爆営業という呼称がすごいですね。こんなことは従来、さかんに励行されていたものです。年賀はがきの売れ残りは焼却処分され、その数が年々増加していると聞き(知り)、年賀状を出さなくなった友人がいました。ぼくも、二十年以上も前からか、年賀状は出さなくなりました。「公社」が嫌いだったこともありますが、面倒が嫌だったからというのが本音でした。郵政の幹部連中は局員(社員)がどのようにして「ノルマ」を果たしているか知悉していました。自分たちもそれをした経験があるからです。ノルマを下っ端に課し、未達成なら、幹部の責任が問われるという「連帯・無責任?」体制で、これまでも、民営化以後も悪臭(悪習)を続けていたことになります。その挙句の「かんぽ不正(詐欺)」事件の発覚です。この実態もひどいもので、まっとうな犯罪事案です。

 三公社五現業(日本国有鉄道・日本専売公社・日本電信電話公社の三公社と、郵政・造幣・印刷・国有林野・アルコール専売の五事業の総称)といわれた時代が長く続き、今ではそのすべてが「民営化(会社化)」されました。官であれ民であれ、不正はなくならないという典型例が、記事になっている(年賀はがき)自腹営業や「かんぽ」不正販売という犯罪行為でもあるのです。「寄らば大樹の陰」とか「親方日の丸」という形容がありますが、要するに、寄って集(たか)って、本体を食い潰すという「シロアリ」軍団を、営々と国家は養ってきたし、今もその延長上にあるという与太話です。その最大の「シロアリ」(シロアリに怒られそうですが、「そんなものは齧らな」と)は現政権(とその与党=与太者)であります。コロナ禍の最中、go to~と、わけのわからない「目玉・悪玉」政策をごり押ししているのも、連中にすれば、朝飯前の野良仕事のようなもの。腹空かし運動で、満腹待望状態を作り出そうという魂胆です。もっと悪いことが現に進行しているんですよ、まちがいなく。 

 ここまでくれば、政治・行政のやっていることは「自爆営業」「不正販売」と同類で、やがて本体は腐敗し崩壊する宿命にあるのでしょう。そこから逃れられるか。「ニホン丸」はすでに喫水線まで余すところなし、いやすでに、それを越えているのです。この船には船長も航海士もいない。ほとんどが後悔士ばかりという情けない事態にある。でもちゃっかり救命具や小型ボートを隠している輩がいるんだから、汚いねえ。

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 ● かんぽ不正、2448人処分 販売資格取り消しなど―日本郵政 「日本郵政グループは30日、かんぽ生命保険の不正販売問題をめぐり、保険業法に基づき、新たに郵便局員ら2448人を処分したと発表した。乗り換え契約に関する社内調査では、6月25日までに計3583件にかかわる2614人の法令・社内規定違反が確認されており、処分者はさらに増える見通し」(jiji.com・2020/06月30日 20:12)

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