アメリカで起きた事件とそっくりだ 

ロンドンで警官、黒人男性の首に膝か 動画浮上で職務停止処分(BBC News 2020/7/19(日)
ロンドン北部の住宅地イズリントンで警察官が黒人男性の首に膝を押し付けている様子の映像が浮上し、警官2人が職務停止などの処分を受けた。黒人男性の弁護士は、アメリカで起きた事件とそっくりだとして、ロンドン警視庁は謝罪すべきだと話している。 ロンドン警視庁によると、警官たちは16日、イズリントンの通りでけんかが起きているという通報を受けて現場に急行。マーカス・クタン容疑者(48)が公共の場で刃物を所持していたとして、現行犯逮捕した。 この逮捕現場について、警官2人がクタン容疑者を地面に押さえつけて手錠をかける際、警官の1人が容疑者の首に膝を押し付けているように見える動画が、ソーシャルメディアで広まった。 映像では容疑者が警官たちに、「首からどけ」と繰り返す様子が映っている。(同上)

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 夜明けの晩に鶴と亀と滑った

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 前回は「竹取物語(かぐや姫)」と「桃太郎」を引き合いに出して、いくつかのことを考えようとしました。今回は子どもの遊びです。それも歌いながらの遊び(遊戯)についてすこしばかり詮索をしてみようという趣向です。

 こんな歌を歌いながら、友だちと遊んだことはありませんか。「かごめ かごめ」です。かごめは「かがむ」か。

 かごめ かごめ
 籠の中の鳥は
 いついつ出やる 
 夜明けの晩に
 鶴と亀と滑った
 後ろの正面だあれ

 いったいに子どもの「遊び」にはよくわからないことがたくさんあります。隠れん坊や鬼ごっこはそれなりにわかりやすいとおもわれますが、はたしてどうでしょうか。

 こんな遊び(遊戯)を発明したのはだれか、またそれはいつごろだったのか。いまではほとんどわからなくなってしまいました。「かごめ かごめ」というはやしことばすこしずつちがってはいますが、多くの地方で歌われ遊ばれた形跡があります。

 「夜明けの晩に  つるつる滑った  鍋の鍋の底抜け  底抜いてたもれ」(この歌詞の奇妙さは,なんとしたことか。「夜明けの晩」ってどういうこと? 鶴と亀と滑った、入試にか)

 

江戸時代の後期(天保15・1844年)に著された「幼稚遊昔雛型」という子どもの遊びをあつめた書物にも「かごめ かごめ」がでています。作者は万亭応賀。静斎栄一による挿絵がつけられています。
 

万亭応賀1818(文政元)~1890(明治23)
合巻(ゴウカン)作者・戯作者。本名は服部孝三郎・長三郎、別称は春頌斎・長恩堂。常陸国下妻藩に出仕。

 再び、柳田国男さん。その柳田さんがつぎのように書いています。

 《 小さい者がいろいろの大きな問題を提出いたします。夕方などにわずかの広場に集まって「かーごめかごめ籠の中の鳥は」と同音に唱えているのを聞きますと、腹の底から 国文の先生たちを侮る心が起こります。こんな目の前の、これほど万人に共通なる文芸が、いまなおそのよって来たる所を語ることあたわず、かろうじていわけない者の力によって、忘却のからまぬかれているのです。何かというと、「児戯に類す」などと、自分の知らぬ物からは回避したがる大人物が、かえってさまざまの根無し草の種を蒔くのに反し、いまだ耕されざる自然の野には、人に由緒のない何物も成長せぬという道理を、かつて立ちどまって考えてみた者がありましたろうか。(柳田国男『小さき者の声』)

 かーごめ かごめ かーごのなかのとーりは…

 歌詞の意味はもう不明になりました。いまどき、こんな遊びをする子どもたちは幼稚園や学校以外ではほとんどみられなくなりました。

 この「かごめかごめ」という児童の遊戯をみて、なにを感じるか。あるいは、そこでどのようなことをかんがえることができるか。それは「遊戯の意味(歴史)」を尋ねることであると同時に、「子どもとはなにものか?」という疑問に直面することでもあるはずです。子どもとは、単に幼い、半人前の存在ではない。大人になるための準備段階に生きているものではないというとらえ方は、この国では当たり前に見られました。いかにも不可思議な存在、それが、子どもに対する社会(大人)の視線であったといってもかまわないとおもいます。(つづく)

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 桃太郎、今は神として鎮座する

 「ももたろう(桃太郎)」です。

 この話はご存知ですか。日本には驚くほどたくさんの昔話があります。こんにちではあまり好まれないのかもしれませんが、テレビもラジオも、新聞も雑誌もなく、もちろん学校なんかがなかった時代、おそらく江戸時代以前の長い歴史のなかでは、この昔話(昔語り)はきわめて重要な教科書であり、教育の材料であったといえます。老人から子どもに語って聞かせて、世の中に生きていく姿勢や態度を教えたと考えられます。あるいは大人もそこからなにかを学んだことでしょう。

 「勧善懲悪」という言葉があります。その意味するところは「善事を勧め、悪事を懲らすこと。特に、小説・芝居などで、善玉が最後には栄え、悪玉は滅びるという筋書きによって示される、道徳的な見解にいう。勧懲」(大辞泉)ということです。どんなに貧しくても正直に生きていれば、いつかはきっと幸福になるという教えもたくさんありました。

 「ももたろう」はどんな話だったのでしょうか。

 おおよその「あらすじ」は以下の通り。

 《ある村に子供のいない老夫婦が住んでいた。ある日、お婆さんが川で洗濯をしていると、大きな桃が流れてきたので、持って帰ってお爺さんと食べようと家に帰った。二人で桃を割ると中から男の子が生まれたので、『桃太郎』と名づけて大事に育てた。成長した桃太郎は、鬼ヶ島の鬼が横暴を働き、人々を苦しめていることを知ると鬼退治を決意し、両親から黍(キビ)団子を餞別にもらい、途中で犬・猿・雉を黍団子で誘って家来に従え、鬼ヶ島で鬼と一騎打ち、見事に勝利を収め、鬼が搾取した財宝を持ち帰った。》(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 話の成立

 《 桃太郎の事跡は、岡山県の吉備津彦・温羅伝説の他、愛知県犬山市など全国に多数あり、本家争いなど舞台についての異論もある。/ 成立以前の物語に原型を見ることもでき、特に鬼退治のくだりは大和王権が渡来の朝鮮半島からきた人たちとの間で武力衝突を起こしたものを、御伽噺やお話として脚色、伝承したものが元になったという指摘もしばしばなされる(桃は、また別の伝承などとの関連が指摘される)。/ 発生年代は正確にはわかっていないが室町時代とされ、江戸時代以降に広まったとされる。草双紙の赤本による『桃太郎』『桃太郎昔話』などが出版により広まった最初の版であるとされる。/ 明治時代初期までは桃を食べたおじいさんとおばあさんが若返って、二人から桃太郎が生まれたという話の方が主流であった。この他にも物語に差異のあるものが多数伝わっているが、巖谷小波により1894年に『日本昔話』としてまとめられたものがその後の語り伝えに大きく影響した。明治20年に国定教科書に採用される際にほぼ現在の形のものを掲載して以降、これが定着した。》

   解釈

 《 丑(うし)と寅(とら)の間の方角(北東)は「鬼門」と呼ばれ不吉な方位とされていることから、桃太郎率いる動物は、その逆の方位にあたる申(サル)、酉(キジ)、戌(イヌ)で不吉を押さえるという設定がされている(方位については十二支を参照)。サルは智、キジは勇、イヌは仁を表すなどという解釈もある。/ 第二次世界大戦の際には桃太郎は軍国主義というイデオロギーを背景に勇敢さの比喩として語られるなど、社会的な背景などにより多様な解釈がされてきた。現在では、暴力的な話だとして、鬼退治ではなく、話し合いで解決したことになっていたり、桃太郎というのはジェンダーバイアスを押し付けるとして主人公が「桃子」になっていたりと、様々な思惑から物語に改変が加えられている。》

 《「発表時の時代背景もあり、軍事色が強い感があるせいか、現在では歌詞が改変されたり、後半部を削除したりする場合が多い。》(ウィキペディア(Wikipedia)』)

唱歌「桃太郎」1911年の「尋常小学校唱歌」に登場。作詞者不明、作曲・岡野貞一。

 桃太郎さん桃太郎さん、お腰に付けた黍団子、一つ私に下さいな。
 やりましょうやりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
 行きましょう行きましょう、あなたについて何処までも、家来になって行きましょう。 
 そりゃ進めそりゃ進め、一度に攻めて攻め破り、潰してしまえ鬼ヶ島。
 面白い面白い、残らず鬼を攻め伏せて、分捕り物をえんやらや。
 万々歳万々歳、お伴の犬や猿雉子は、勇んで車をえんやらや。

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   桃の中から子どもが生まれるという話は「ちいさ子物語」などといって、他にもたくさんあります。「一寸法師」「瓜子姫」さらには「かぐや姫」などなど。その教えは「子宝に恵まれる」「小さく生んで、大きく育てる」という実際上の効用や、善因善果(まじめに生活していれば、幸福に恵まれる)の教えなど、さまざまな教育効果がそこにはこめられていたことでしょう。おじいさんとおばあさんが「子を産む」ということはないわけで、ここには「孝行息子」に恵まれるという善男善女の教訓があったといえるでしょう。

 かなり前に岡山駅前を歩いていて、びっくりするほどの「桃太郎像」に遭遇してじつにいやな気になったことがありました。グロテスク、そのものでした。これを街中に設置する意図はなんだったか、市の偉いさんに聞いてもわかりませんでした。神話の人物やおとぎ話の人物が劣島のいたるところに「勝手にふるまっている」という印象をぼくは持つのですが、どうしたものでしょうか。(「桃太郎」に関しても、神社がやたらにあちこちに存在します。まるで弘法大師さんみたいですね)

 唱歌「桃太郎」の歌詞はいかがですか。「ふるさと」の岡野貞一作曲ですが、三、四の歌詞はどうなんでしょうかですね。「作詞者不詳」が唱歌に多く見られますが、これは学校唱歌を導入する際に作られた会議で多くの人の意見が合体して出来上がったとかで、個人名を特定できなかったからだというのです。「鬼が島」はどこにあるのでしょうか。時代によって、そのありかが点々としていきました。

 「歌」が国威発揚に使われた一例でもあります。参考までに「蛍の光」を。

 文字通りに「お伽話」だったものが、世の中の変化(世情)に応じていかようにも変容させられてきた、そんな例はいくらでもあります。それには「功罪」がありそうですが、なによりも「歌が旗になる」という問題は指摘しておきたい。いまでは、その原初の意図は全く分からなくなりましたし、長く語られた来た物語も、ほとんど生活空間から排除されてしまいました。「桃から生まれた桃太郎」は罪はなさそうですが、そこには悠久の昔人の息吹や感情もまたこめられていたのだと考えると、いささかの感慨を否定できません。「昔話」は人類がまだ幼かった時代の名残かもしれませんね。

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 詩も俳句も、いいものはいいね

水澄みて四方に関ある甲斐の国(龍太)

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わたしを束ねないで  (新川和江)

わたしを束ねないで
あらせいとうの花のように
白い葱のように
たばねないでください 私は稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色の稲穂
 
わたしを止めないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽ばたき
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音
 
わたしを注がないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
 
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮 ふちのない水
 
わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐りきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風
 
わたしを区切らないで
,(コンマ)や.(ピリオド)いつくかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡がっていく 一行の詩

●あらせいとう=(あらせいとう【紫羅欄花】:アブラナ科の多年草で、園芸上は一年草。南ヨーロッパ原産。高さ五○~八○センチメートル。葉は長卵形で細毛が密生。五~九月頃、白・桃・紫赤色などの花を多数総状につける。八重咲きなど園芸品種が多い。ストック)(広辞苑)

●新川和江=詩人。1929年、茨城県結城(ゆうき)生。高等女学校在学中より西條八十に師事。1983年から1993年まで吉原幸子とともに「現代詩ラ・メール」誌を主宰、女性詩人の活動を支援した。詩集に『ローマの秋・その他』(室生犀星詩人賞)、『ひきわり麦抄』(現代詩人賞)、『はたはたと頁がめくれ…』(藤村記念歴程賞)、『記憶する水』(現代詩花椿賞、丸山薫賞)など。『千度呼べば』に収められた「ひといろ足りない虹のように」をはじめ、多くの詩に曲が作られ、愛唱されている。(新潮社)

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 飯田龍太さんの句をいくつか。

春の鳶寄りわかれては高みつつ 
 
紺絣春月重く出でしかな
 
春すでに高嶺未婚のつばくらめ
 
春暁のあまたの瀬音村を出づ 

●飯田龍太=俳人。1929年、山梨県生れ。日本の近代俳句に大きな足跡を残した飯田蛇笏の四男。国学院大学文学部国文科卒。卒業論文は〈芭蕉の悲劇性の展開〉。1954年第一句集《百戸の谿(たに)》を出版,戦後俳壇の新鋭として注目を集める。1957年現代俳句協会賞を受賞,1968年第四句集《忘音》で読売文学賞を受賞。蛇笏主宰の俳誌《雲母》を父の死後継承し,蛇笏没後30年にあたる1992年に900号をもって終刊した。現代的な感覚溢れる瑞々しい叙情性が特徴の作風で知られ,現代俳句の第一人者と評される。郷里山梨において,山梨県立文学館の創設などに尽力した。句集に《童眸》《春の道》《山の木》《涼夜》《山の影》《遅速》など。《飯田龍太全集》全10巻が2005年に完結。2007年没。(百科事典マイペディアの解説)

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 孔子の語には好きなものがたくさんありますが、中でもぼくが好んで実践したいと願ったのは「述而不作 信而好古」というもので、これは彼の生活の流儀だと思ってきました。信じるに足る「古」(この場合は先達・先輩)を好んで、それを語るだけが「私の生き方」だ。自分は何かを創造するような人間ではないのです、と。つまりは「私は聖人君子ではない」というのでしょう。まあ、ぼく流に砕けて受け止めれば、先輩のいいものをひたすら読んだり、書いたりするばかりで、それ以外の行いは慎むべし、とこれまでもこれからも自分に言い聞かせることをやめないつもりです。

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 学校とつきあうのは、ほどほどに

 「学校と私」

 毒になるものこそ面白い=作家・あさのあつこさん

 楽しいことが多かったのは小学校の時。5年生だったと思うんですけど、宿直当番だった先生が「星を見せてやるから(学校に)来い」って。夜、わくわくしながら学校に行くと、天体望遠鏡が備えてあって、土星が半分映っていた。すごいショックで……。星ってチカチカ光っているとばかり思っていたけど、実は違って、全然光ってない。その時初めて、自分の周りの世界が、もしかしたら私たちが思ったり目で見ただけではなくて、いろいろな形をしているのではないか、と感じました。知らないことがいっぱいあるんだと、子ども心にすごく記憶に残っていますね。

 小学校卒業までは本当に本を読みませんでした。中学生になってシャーロック・ホームズにはまって、そこから海外ミステリーに。高校ではサマセット・モームの小説「人間の絆(きずな)」に登場する悪女ミルドレッドに、ものすごい衝撃を受けました。大人は子どもに「立派な大人になりなさい」「良い人間になりなさい」って言いますよね。でも、その正反対の女性がこの小説の中にいて、こんなにも魅力的じゃないかと。大人が言うような人間だけがすてきなんじゃないという、人間の多様性のようなものを教えてもらったと思っています。

 元々、物語や小説って毒だと思う。薬になるものより、毒になるものこそが面白いと思うんです。学校とか親というのは建前の世界で、薬になること、役に立つことを教えるわけですよね。社会勉強も含めて教えてもらうのが学校なので、それを否定する気はないです。ただ、本に出合わなくて、学校とか家庭も含めた大人たちが構築している世界だけで生きていたら、すごくつまらなかったと思うんですよ。悪女であること、男を滅ぼすこと、あるいは男とともに滅びることとか、そういう全部を私は高校時代に小説や物語から教えてもらった。

 学校を絶対視する必要はないと思う。学校がすべてだと思ってしまったらものすごく息苦しい。だからある意味、ぎりぎりになったら捨てられる、放り投げても良い世界だと私は思っているんです。<聞き手・佐藤慶>

■人物略歴

◇あさの・あつこ=1954年、岡山県生まれ。青山学院大文学部卒。小学校講師を経て91年、作家デビュー。中学校野球部を舞台にした小説「バッテリー」シリーズで小学館児童出版文化賞などを受賞。(毎日新聞・07/11/26)

  ぼくは早い段階から学校に不信感をもっていた。それはいまも変わらない。全否定でもなければ全肯定でもないという意味です。自分の居場所は学校だけだとは思ったこともなければ、学校でこそ自分を表せるなどという狭い考えにとりつかれたこともなかった。教師には覚えはめでたくなかったのは当然だったし、だからこそ、教師の真似事をするようになったともいえるんです。

 教えると育てる

 「学歴社会は、学校を重んじるように見えはするけれども、実のところ学校の教育を重んじているわけではなく、何々学校を出たという学歴(学校を出たこと)だけを重んじているわけで、教育のほうに関心はむいていない。(略)

 そこでは、そだてる―そだてられる、世代から世代への文化のうけわたしということは、なりたちにくくなっている。今の日本の学校は、そういうふうになってきている」

 「そういう側面だけだということはないし、だから学校を全部やめてしまうのが、教育回復の早道だと、メキシコの神父イワン・イリッチにならって、唱えようとは思わないが、しかし、学校には教育として欠けているところがあるということを見すえて学校にいくようでないと、学校のえじきになってしまう。そういう不信の心があって、はじめて、教師と生徒とがたがいにもうすこしちがう仕方で、今の学校で出会ってみようという、志もうまれる」(鶴見俊輔)

  鶴見さんがいおうとするのは「教―育」の「教」だけがあって「育」が決定的に欠けている「学校教育」の現実の問題点についてです。

 「学校には教育として欠けているところがあるということを見すえて学校にいく」とはどのような意味でしょうか。また、そのように「見すえて学校にい」かなかった結果、「学校のえじきになって」しまったひともたくさんいるとおもわれます。
 「えじき」になるとはどんなことか、それをかんがえてほしいのです。かれは「不信の心」などということばもつかっています。それはなにをさしているのでしょうか。


 教師が話す(教える)ことに対して「そうもいえるけど、しかし…」と立ち止まることだといっていいかもしれない。でもそれは簡単ではないはずです。思いの外むずかしいでしょう。だからといってそれを「飲み下す」と「学校のえじき」になってしまう。まあ、これは一種のたたかいみたいなもの。だまって教室にすわってる場合じゃないね。
  あさのさんも同じような意味のことをいっておられるでしょう。

 「学校を絶対視する必要はないと思う。学校がすべてだと思ってしまったらものすごく息苦しい。だからある意味、ぎりぎりになったら捨てられる、放り投げても良い世界だと私は思っているんです」

 自由でありたいと願っている子どもたちに学校は不自由を自由だと錯覚させるようなふるまいしかしない。気をつけ、並べ、右向け、あいさつしろ。いったい子どもを何ものだとみなしているのでしょうか。「学校には欠けているところがある」というのは「軍隊には欠けているところがある」というのと同日の談で、強制や矯正や強請が「教育」の別名になっているからです。そこのところを弁えておかないと、見事にえじきになるのはまちがいなしです。

 実感として、学校との付き合い方をよく考えた方がいいと思います。ぼくはまじめでもなかったし、いい子になろうともしなかったから、学校にはなじめなかった。教師が気に入らなかった。小学校の子どもでも、「こいつ、怠けてるな」とか、「偉そうにしてるじゃん」という近寄りたいとは微塵も考えられなかった大人(教師)ばかりだった。これは、ぼくの問題でもあるし、それはそれで「不幸」なことだったと、「わが不徳」を恥じるのですが、なおいいたいのは、自分をだます、自分を殺す、無理にいい子ぶろうと「猫をかぶらない」ということです。かぶりつけると、剥がれなくなるよ、ほんとに。

【餌食・えじき】(1)動物の餌として食われる生き物。えさ。(2)他人の欲望や利益のために犠牲になるもの。くいもの。「暴力団の―になる」(大辞林)

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 神話は神話らしいのがいいね

(鵜戸神社)

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 コノハナサクヤビメ神話は『古事記』によればつぎのような物語になっています。
 天降ったニニギノミコトは南九州の笠沙(かささ)の岬でオオヤマツミのうつくしい娘コノハナサクヤビメに出あった。ニニギは父のオオヤマツミに姫を妻にくれるよう申しこんだ。オオヤマツミはよろこんでコノハナサクヤビメに姉のイワナガヒメを添えてさしあげた。しかし、みにくい姉をきらったニニギはこれを送りかえし、コノハナサクヤビメと結婚した。

 オオヤマツミはひどく恥じて、「イワナガヒメをさしあげたのは天神の寿命が石のように不変であるようにという気持からです。コノハナサクヤビメを贈ったのは木の花がはなやかに咲くように栄えませという願いからです。姉をお返しになったために、天孫のお命は木の花のようにはかなくおなりでしょう」と申しあげた。このことによって天皇の寿命は長久(長命)ではないのだといわれます。(下の写真は岡山大山祇「オオヤマツミ」神社)

 この神話の原型とされる神話は東南アジアを中心に世界中に分布・流布しています。その典型を、中央セレベスのポソ地方のトラジャ族がつたえる神話によって紹介します(大林太良『神話と神話学』大和書房・1975年)。
 初め、天と地との間は近く、創造神が縄に結んで天空から垂らして下ろしてくれる贈物によって人間は命をつないでいた。ところがある日、創造神は石を下ろした。われわれの最初の父母は、「この石をどうしたらよいの?何か他のものを下さい」
と神に叫んだ。神は石を引き上げて、バナナを代わりに下ろしてきた。二人は走りよってバナナを食べた。すると天から声があって、
「お前たちはバナナをえらんだから、お前たちの生命は、バナナの生命のようになるだろう。バナナの木が子どもをもつときには、親の木は死んでしまう。そのように、お前たちは死に、お前たちの子どもがあとをつぐだろう。もしもお前たちが石をえらんでいたならば、お前たちの生命は石の生命のように不変不死であったろうに」

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 天孫が降臨する以前、この島には「国津神」「海津神」がいました。後から来た天神たちが、力をふるって、元々いた神々を退治するというのが記紀神話の主題であったというわけです。大和朝廷の成立とその権力に正当性を与えるために、このような神話を必要としたと考えられるでしょう。(左写真は海幸彦と山幸彦をまつる宮崎青島神社)

◆天津神(アマテラスの子孫)と国津神(オオヤマツミ・ワタツミ等)の戦いの物語
  ニニギノミコト(アマテラスの孫)の降臨―日向の国(笠沙の岬・現鹿児島県内)
  コノハナサクヤビメ(オオヤマツミの娘)―阿多の生まれ

         ニニギノミコト―コノハナサクヤビメ
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       ホデリ(海幸彦)・ ホスセリ・ ホオリ(山幸彦)
    (長男)        (次男)    (三男)

 海幸彦と山幸彦~兄弟の葛藤

*それぞれの幸(漁具と猟具)の交換します
*弟は兄の釣り針を紛失してしまい、許しを請うが兄は拒否する(兄弟喧嘩)。
*ホオリはなくした釣り針を求めて、海神(オオワタツミ)の宮へ。                 
*そこでトヨタマヒメ(海神の娘)(実は巨大なワニ)に逢う。 


       ホオリ ― トヨタマヒメ

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天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト

→ウガヤフキアエズノミコト

(火遠理命(ほおりのみこと)が海神の娘豊玉(とよたま)姫と結婚して生んだ子。叔母の玉依(たまより)姫に育てられ,のち結婚して,五瀬命,神武天皇を生む。産屋(うぶや)を葺き終わらぬうちに生まれた意の名。鵜戸(うど)神宮にまつる。)(マイペディア)

 ウガヤフキアエズ ― タマヨリヒメ(トヨタマヒメの妹)                        

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        ワケミケヌノミコト(成人した後の神武天皇)

◇「朝廷は、竹の名産地である南九州の隼人が、竹細工に関してすぐれた技能を持っていることを知っていたのである。竹器製作に隼人を用いたもう一つの理由は、隼人たちが身に帯びている呪力を重視したからであろう」(沖浦和光『竹の民俗誌』岩波新書)竹職人は「差別」の対象になったことがありました。そこにはさまざまな価値観や制度が混交していたのです。


 鹿児島県は薩摩半島の西南海岸に阿多(アタ)というところがあります。その南は笠沙、突端は野間岬です。そこには阿多神社があり、竹藪が茂っています。阿多隼人の集住地。
 「此地者韓国に向い、笠沙之御崎に真来通り而、朝日之直刺国、夕日之日照る国なり。故、此地は甚吉き地(ところ)」(『古事記』)

 「彼ら(阿多隼人)が持ち伝えてきた《竹中生誕説話》《羽衣伝説》《八月十五日夜祭》―この三つの民間伝承や民俗儀礼は、中国大陸の南部から東南アジア一帯にかけて広く分布している。さらにその源流を遡ると、ヒマラヤ山麓から中国の江南地方にいたる照葉樹林帯と、南太平洋の熱帯の島々まで辿り着く。この二つの地域は、《竹》の民俗文化圏であった」(沖浦・同上)


 詳細は面倒だから省きますが、かぐや姫が浦島太郎と合体しています。かぐや姫は天女であって、彼の国でよろしくないことをした罪で「汚れたクニ」に落とされたのです。もちろん、「竹取物語」も異なった二つの話が結合させられています。姫に対する求婚譚は後から孵化されたものだとされます。このごにんがそれぞれに特定の人物に特定されてもいるのです。みなみこうせつは出てきません。もちろん、神田川も流れていません。月からの死者に連れられて、姫はもとの世界に帰ります。遠くを見ると富士の峰から煙が立っていましたとさ。コノハナサクヤビメが祭られて頂上に神社に鎮座ましましています。富士登山は姫に会いに行くんですよね。今では入山(出会い)料を取られます。

 本店は富士宮神社です。だから、富士登山は本宮(一合目)から登るのが本筋だそうです。ぼくは楽をしましたが。(この項、まだ続くかどうか、思案中)

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