行ってもいい、行かなくても…

 どうして大江さんは学校へ行くようになったのか、それも「自分から進んで」行きだしたのか。学校へ行く理由、行かない理由はさまざまにあるでしょう。行きたくとも行けない人もいます。学校へ行かなければならないというのは、子ども自身が納得してというよりは、そんなのあたりまえじゃないかという観念がすでに植えつけられているからだといえばどうか。だれもが行くし、自分も行かなければならないと教えられたから。  

 大江健三郎という人が学校へ行く理由を自分で発見したのは彼に固有の経験があったからです。だから、それをだれにでも適応させるのは正しくないのかもしれない。でも、わかりきったこととしてすまさないで、なぜ学校に行かなければならないのかと、改めて考えて(自問して)みることは無意味なこととは思えないので、このブログを通して考えぬくためにも、わかりきった常識なんかではないものとして、あえて取り上げたわけです。

 《 教室で勉強しながら、また運動場で野球をしながら ― それが戦争が終わってから盛んになったスポーツでした ―、私はいつのまにかボンヤリして、ひとり考えていることがありました。いまここにいる自分は、あの熱を出して苦しんでいた子供が死んだ後、お母さんにもう一度産んでもらった、新しい子供じゃないだろうか?あの死んだ子供が見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしたこと、それを全部話してもらって、以前からの記憶のように感じているのじゃないだろうか?》

 教室にいる子ども、は大人になる前に死んでしまった子どもたちがしていた経験をすべて話してもらって、その子どもたちのかわりに生きているんだ、その証拠に、子どもたちはみな同じ言葉を受けついでいるじゃないか。(中略)

 そして僕らはみんな、その言葉をしっかり自分のものにするために、学校に来ているのじゃないか?国語だけじゃなく、理科も算数も、体操ですらも、死んだ子供らの言葉を受けつぐために必要なのだと思う!ひとりで森のなかに入り、植物図鑑と目の前の樹木を照らしあわせているだけでは、死んだ子供のかわりに、その子供と同じ真新しい子供になることはできない。だから、僕らは、このように学校に来て、みんなで一緒に勉強したり遊んだりしているのだ…》

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 なにかよくわからない理由だなあ、というのが私の正直な感想です。それって、無理矢理の理屈なんじゃないですか。やっぱり行かなければならないという「常識」を、言い換えただけではありませんか、健ちゃん。みなさんには大江さんの話から、なんらかのメッセージが伝わったでしょうか。ぼくはいっぱし(一端)の大人になってしまったようだから、子ども心に豊だったかも知れない想像力が枯れてしまったのでしょう。大江さんも書いておられます。「私もいま、自分の経験したことをずいぶん久しぶりに思い出しながら、大人になった自分には、…じつは、よくわからなくなっている、という気がしますから」と。

 それにしても、学校に行く(行かされるんじゃありません)理由とはいうのは、たいへんむずかしいものなんですね。ここで大切なのは、自問し自答するということ。「どうして子どもは学校にいかなければならないの?」と大人(親や教師)に聞いてごらんなさい。きっと、立派な御託を並べて説得しようとするんです。もののいい方はそれぞれで、「行きたくなければ行かなくてもいいよ」といういい方もします。でもね、行っとかないと、社会に出て困るからね …、とかなんとかいって、結局は行くべきなんだ、行かねばならぬ、ということしかいおうとしないんです、たいていの大人は。 

 学校なんか行かなくてもいいさ、でも行かなければ、行ったよりも何倍もの知恵や経験を積まなければならないことだけは確かです。ぼくは中学校の頃、卒業して「自転車屋」さんになるつもりでしたし、あるいは「大工」さんになろうかと考えたりしていました。その思いは古希を過ぎた今でも濃厚に残っています。なぜそう考えたのか。近所の「自転車屋」が格好いいおじさんだったのがそれ。大工さんにあこがれたのはものを作り形が現れてくるのがまことに興味深かったから。高校には仕方なくいきましたが、学校は嫌いだった。というか、教師が嫌でしたね。二年生になってからだったか、珍しく親父が「お前どうするんだ、医者にでもならないか」といったものです。それっきりでしたが。とてもありがたいことでしたが、子どものことなんか少しも構わなかった人でした。で、自転車屋にも大工にも医者にもならず、「ワタシハコウイウヒトニナリタイ」という人間になったのかどうか。わからんなあ。(それに、おふくろは「もう一度あんたを産んでやるし」とはいわなかった)(下に掲示したのは茨木のり子さんの「学校 あの不思議な場所」註 満点→満天。いかにも学校の詩らしい諧謔かな)

 「学校に行く理由」なんか、ないよ。多くの理由らしきものは行った後からくっつけただけなんだろうね。大江さんが言おうとしたことの要点は「歴史のバトンタッチ」だったでしょう。歴史の埒外(外側)にいたのでは、社会(集団)をよくしていこうとする生き方が不可能になるのだから。ぼくたち以前の人々(亡くなった人すべてを含んでいる)の生きたかった生き方(人生)、なりたかった人間になる、それが「後から生まれてきたものの」使命というか責任なんじゃやないかと、健ちゃんは言いたかったのだ。おれが王様だ、私が女王です、とこれまでの歴史を無視し、先達の生き方を土足で踏みにじってでも「自分ファースト」を求めるような情けない、生き方をしないためにこそ、学校に行くのです、と。

 そうかなあ、とそれでもぼくは考えてしまいます。そんなこと、学校なんか行かなくてもできるだろうし、できそうですから。だから、あえて「学校へなんで行くの(?)」と問われたら、「言ったらわかるし」とぼくは言うことにしている。「わかったら、行かなくてもいい」し、「行きつづけてもいい」のが学校やんか。だからぼくは「学校にいても、いなかった」ような付き合い方を学校(教師)としてきたのです。近すぎると「餌食になる」のは確か。行かないと「友だち おらへん」しなあ。大江さんの解答といっしょですか、ちがいますか。

 またいずれ、この問題を考えることになるかもしれません。(下の写真は「蛇足」はたくさんだ)

写真の面々、今はどこに浮遊(富裕)しているのか。「希望は絶望に同じい」(魯迅)まるで神出鬼没です、鬼滅じゃありません。「政界は一寸先は闇」だって。そんな方向感覚(ウィンカー・ルームミラー)なしの輩に「生活や人生」をゆだねているのがいけないんですね。「自分ファースト」というのは、反省もなければ、感謝もしない人品の個性(古姓)。「1番ファースト▼▼ 2番ファースト▲▼ 3番ファースト罰✖ 4番 ファースト✖✖罰」…。こんなチームで戦えるか、みんな「ファーストじゃん」か。

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 どうして学校へ行って…

 なぜ子供は学校へ行かねばならないのか

 《 私はこれまでの人生で、二度そのことを考えました。大切な問題は、苦しくてもじっと考えてゆくほかありません。しかもそれをすることはいいことです。問題がすっかり解決しなかったとしても、じっと考える時間を持ったということは、後で思い出すたびに意味があったことがわかります。

 私がそれを考えたとき、幸いなことに、二度とも良い答がやってきました。それらは、私が自分の人生で手に入れた、数知れない問題の答のうちでも、いちばん良いものだと思います 》(大江健三郎『「自分の木」の下で』朝日新聞社刊、2001年)

 なぜ子どもは学校へ行かねばならないのか?このような疑問を一度でも持たなかった人はいないはずです。あるいは現に、こんな疑問におそわれながら学校へ行かされている、と感じている人もいるでしょう。この疑問(自問)に対する答はたった一つだけ、ということはありません。人それぞれに持ち合わせている答(自答)はさまざまで、作家の大江さんが出した答はそのうちの一つにすぎないといっていいでしょう。

 では、大江流に考えて出した答とは?

 《 最初に私が、なぜ子供は学校に行かねばならないかと、考えるというより、もっと強い疑いを持ったのは、十歳の秋でした。この年の夏、私の国は、太平洋戦争に負けていました。日本は、米、英、オランダ、中国などの連合国と戦ったのでした。核爆弾が、はじめて人間の都市に落とされたのも、この戦争においてのことです 》

 さすがは大江さんですね。ぼくはとてもこのような感受性を持っていなかったと白状しなければなりません。それはともかく、この部分でちょっと気になるところがあります。大江さんは「私の国」といわれています。このような物言いに対して、私は違和感を抱きます。私の国、私の町、私の会社、私の学校等々。めくじらを立てるわけじゃないんですが、なにか変だという気がします。(may country /my city /my company)

 戦争中「天皇は神だ」と教え込まれていたけれども、敗戦時に、天皇は「人間」になった(?)とされた。そして、この変化は正しいものだと受けとめた、と大江さんはいわれます。

 同志社女子専門学校・加茂川農園開墾(1943年)キリスト教信仰に基づいた教育を行っていた同志社。そこにも奉安殿は作られていた。

 《『神』が実際の社会を支配しているより、人間がみな同じ権利をもって一緒にやってゆく民主主義がいい、と私にもよくわかりました。敵だからといって、ほかの国も人間を殺しにゆく― 殺されてしまうこともある ― 兵隊にならなくてよくなったのが、すばらしい変化だということも、しみじみと感じました》

御真影奉安殿 1938年10月、同志社チャペル東側に設けられた。天皇・皇后の写真、教育勅語謄本などを奉安するために、学校の敷地内に1920年代後半から設けられ、1930年代にはほぼすべての学校に普及した。(https://www.dwc.doshisha.ac.jp/about/publicity/publication/125_years/chapter3_2

 でも、戦後も一ヶ月すぎて彼は学校に行かなくなった。天皇は神だといって、その写真を拝ませていた教師たち、アメリカは「鬼畜」であると教えていた教師たちが「これまでの教え方は間違いだった、そのことを反省する、と私たちにいわないで、ごく自然のように、天皇は人間だ、アメリカ人は友だちだと教えるようになったから」でした。

 それから毎日学校に向かいながら、そこを通りすぎて森の中なかに入りつづけたといいます。「私は大きい植物図鑑を持っていきました。森の樹木の正確な名前と性質を、私は図鑑で、一本ずつ確かめては、覚えてゆきました」

 《 森のなかでひとり、植物図鑑から樹木の名前と性質を勉強すれば、大人になっても生活できるのです。一方、学校に行っても、私が心から面白いと思う樹木の事に興味を持って、話し相手になってくれる先生も、生徒仲間もいないことはわかっていました。どうしてその学校に行って、大人になっての生活とは関係のなさそうなことを勉強しなければならないのでしょう?》

 秋の半ば、強い雨の降るその日も森のなかに入っていきましたが、強雨で家に帰れなくなったそうです。翌々日、一本のとちの木の洞(ホラ)(くぼみ)のなかで倒れているのを村の消防団の人たちに救出されました。熱はひどく、医者も匙を投げるほどだったそうです。でも「母だけが、希望を失わず、看病してくれていたのです」

 そのとき、彼は母親と次のような会話を(土地の言葉で)交わしたそうです。

 ― お母さん、僕は死ぬのだろうか?

  ― 私は、あなたが死なないと思います。死なないようねがっています。

  ― お医者さんが、この子は死ぬだろう、もうどうすることもできない、といわれた。それが聞こえていた。僕は死ぬのだろうと思う。

 母はしばらく黙っていました。それからこういったんです。

 ― もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。

 ― …けれども、その子供は、いま死んでゆく僕とは違う子供でしょう?

 ― いいえ、同じですよ、と母はいいました。私から生まれて、あなたがいままで見たり聞いたりしたこと、読んだこと、自分でしてきたこと、それを全部新しいあなたに話して上げます。それから、いまのあなたが知っている言葉を、新しいあなたに話すことになるのだから、二人の子供はすっかり同じですよ。

 私はなんだかよくわからないと思ってはいました。それでも本当に静かな心になって眠ることができました。そして翌朝から回復していったのです。とてもゆっくりとでしたが。冬の初めには、自分から進んで学校に行くことにもなりました 》(同上)

 なんという親子でしょう。「私は、あなたが死なないと思います」「もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫」こんな会話ができる親子は、どこにでもいるはずがありません。「大江ならでは」というのかもしれないと、ぼくは不思議に思っていました。

 これまでに何度か、大江さんからじかに「学ぶ」機会をえました。「また産んであげる」と言われた母親のことを聞いてみたかったが、そのままで今に至ってしまいました。「九条の会」では大きな運動の中心に居られたのをしばしば見かけました。お元気かどうか、気になっています。

 余談です。これまで何度もぼくは「九条の会」への参加を求められましたが、いまだに参加していない。「九条改正」に賛成だからではない。まあ、物ぐさから。ぼくは一人で反対している。一人デモもします、山中で。連れはタヌキやイノシシ、キジもいます。その他、まるで「桃太郎」みたいですが。山中暦日ありです。(この項、続く)

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