何が私をこうさせたか(承前)

 朝鮮で朝鮮で見たものは

 九歳(一九一二年)の夏、朝鮮につれていかれます。その二年前に、ご承知のように日本が韓国を併合し植民地にしていました。まさにその時に彼女はある理由があって朝鮮につれていかれました。まあ、連行のようなかっこうでした。そこにおよそ七年間いましたが、その七年間というのはまるで地獄のような生活であったと自身の手記に書いています。たしかに想像を絶するような過酷な試練をうけた時代のようでした。

 十六歳(一九一九年四月)のときに日本へ戻ってきます。そして母親の実家のある山梨県の諏訪村に戻ってしばらく滞在していましたが、その後一人で東京へでてきます。東京にきていろいろな職業につきました。住み込みの女中さん、新聞販売、飲み屋の店員、夜店の売り子などなど。苦労しながら自活の道を開こうとし、なおかついくつかの専門学校にかよい、またキリスト教に近づきながら学ぶことに対する餓えをみたそうとするのでした。学校に行けなかったという負い目か、あるいは、付きまとったみじめさが彼女に学問への執着をもたらせたといっていいかもしれません。この時期の生活もそれ以前に劣らず過酷なものであったわけですが、外から強いられたのではなく、みずから選んだという点では充実していたようにもみえます。じつにけなげに真摯な生活をつくりあげようとした形跡がうかがえます。

 そのような生活を送るなかで、何人かの在日の朝鮮人に出会うことになります。そして結論的にいってしまえば、そのうちの一人の朴烈(パク・ヨル)という人といっしょに住むようになります(一九二二年)。この当時、朴烈は抗日テロ組織である「「黒友会」の指導者であり、また在日思想団体「黒涛会」の中心人物でもあったのです。金持ちは結婚すれば新婚旅行にいく。でも自分たちはそうはできないから、なにか記念になるようなことをしようといって、二人で出版社をつくります。仲間を集めて出版社をつくったのです。その名前がふるっているんですね。「不逞社」。不逞(ふてい)の輩(やから)っていう言葉をご存知ですね。まことに挑戦的ではありませんか。

 そして雑誌を発行するんです。その雑誌の名前がまたすさまじい。『太い鮮人』、「太い」(不逞)というのはどういうことでしょう。「あいつは太い野郎」だという言い方がありますが、図々しい奴、横着者ということでしょうか。「鮮人」という言葉はただいまではつかわれませんが、朝鮮人に対する蔑称としてこの国では常用されていました。だから、それを逆手にとったんですね。この『太い鮮人』という雑誌は何号か出されました。

 一九二三年、関東大震災が九月一日に発生しました。ご承知だろうと思いますけれども、その関東大震災の騒ぎに乗じて、当時日本にいた朝鮮人(それに中国人も)が、正確な数字はよくわかりませんけれども、四千人とも六千人ともいわれるほどたくさん「虐殺」されるという事件がありました。ふみ子と朴の二人は関東大震災に遭遇して、最初は凶暴な市民から身を守るためといって陸軍によって保護検束されました。それ以前より「不逞社」は治安警察法違反という理由で「秘密結社」の指定を受けていたのです。その後すぐに逮捕監禁されます。刑法第73条(大逆罪)と爆発物取締罰則違反という嫌疑でした。

 およそ二年の予審後、大逆罪を犯したというかどで裁判にかけられます。明治四三年に幸徳秋水たちの「天皇暗殺」計画事件がありましたが、それと同じ「大逆罪」容疑で起訴されたのです。当時は大正天皇の時代ですが、その天皇の息子である皇太子(後の昭和天皇)の爆殺を計画したとして、大審院で非公開の裁判を受け死刑を宣告されます(二六年三月二五日)。その直後の四月五日に恩赦があり、二人は罪一等を減じられ、死刑から無期懲役に減刑されます。

 「恩赦」というのは政府によって、その大半は国家規模の慶事にさいして「犯罪者に対して刑罰権の全部または一部を消滅させる処分」(広辞苑)のことで、その種類には「大赦・特赦・減刑・刑の執行免除及び復権」の五種類があげられています(「恩赦法第1条」)。これはずいぶん古い制度ですが、金子ふみ子、朴烈の二人は特赦(「有罪の判決を受けた特定のものに対してこれを行う。(第4条)」)をうけ、死刑から無期懲役に減刑されたのでした。

 現在も地名がのこっていますが、新宿区富久町というところがあります。今はなくなってしまいましたが元の新宿厚生年金会館があった裏にあたる場所です。そこに当時市ヶ谷刑務所がありました。上に名前が出た幸徳秋水たちはここで処刑されました。いまもそのことを記した碑があります。「刑死者慰霊碑」という石碑がそれです。「東京監獄」として作られたのが明治三三年で、大正一一年に「市ヶ谷刑務所」と改称されています。いまの区域は余丁町に入りますが、富久町児童公園となっているところです。

 金子ふみ子と朴烈も市ヶ谷刑務所に収監されていました。刑務所所長は秋山要という人でした。まず朴烈に特赦状を渡して、朴烈はそれをうけとります。彼は二十年後の一九四五年十月、GHQの指令によって釈放されます。翌四十六年十月に「在日本朝鮮人居留民団」が結成され、初代団長に就任しています。彼は七十四歳で一九七四年に現在の北朝鮮で亡くなりました。

 彼女は所長から特赦状をわたされ、所長の面前で破りすてたといいます。その直後、宇都宮刑務所に移送され、七月に獄中で死去(自殺したとされています)。栃木に移され獄中で書いたのが『何が私をこうさせたか』という手記です。彼女には学校歴はほとんどないにひとしい。かろうじて学校に行ったといえなくはないんですが、いずれもほんの瞬間のことでした。だから、この本を一読するかぎり、学校教育をうけたことによって、彼女がなんらかの知識をもったという形跡は認められない。それだから、といえば言葉がすぎるでしょうが、ともかくこれは最良の人間の記録だとぼくは思いました。(つづく)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)