私はこの不平等を呪うのであります

 金子ふみ子という一女性の生涯をたどってみたいと思います。(数回の連載を予定)

 彼女は親から棄てられ、学校からも棄てられ、つまりは世の中から排除されて、なお生きざるを得なかった。このような人間が歩いた道はどのようなものだったか。想像を絶するものだったろうとだけは言えそうです。学校教育や、その証明である学歴がものいう時代、それは決して全否定される筋のものではないのを認めた上で、そのような人生観はあまりにも狭すぎるし、偏り過ぎているのではないでしょうか。たった一人で歩かざるをえなかった彼女の歩いた道に、端倪(たんげい)すべからざる荊棘の足跡が記された。

 生き方の流儀―金子ふみこの場合―

《本来平等であるべき人間が、現実社会にあっていかその / 位置が不平等であるか、私はこの不平等を呪うのであります》

 無籍者であるということ

 金子ふみ子。それはどういう人だったか。彼女は世間でアナーキストという呼び方をされる人でした。アナーキストという言葉、日本語では無政府主義者というふうに訳しますけれども、あまりいい訳じゃなさそうです。きくからに恐ろしそうじゃありませんか。クロポトキンやバクーニン、さらにはプルードンなどを代表とする一つの政治思想・立場をさします。明治以降に時の政治権力にはむかうような主義者を社会主義者、共産主義者として蛇蝎のごとくに忌みきらいました。そのなかに、いまあげたような政治思想家達の主義を信奉していた人びともふくまれていました、もっとも過激な主義者として。だから、なおさらアナーキストときけば、ある種の思考停止、痙攣状態を世間ではひきおこすことになったろうと想像しています。

 みずからの特権的な地位を維持するために権力を悪用するとか、専制的な政治体制に抵抗する人民を抑圧する、そういう圧政的・暴力的な政府や政治権力をなくしてしまうという点ではたしかに無政府主義です、アナーキズムは。でも、どんなときにも人間は一人で生活することはできないし、集団をなして生きていく以上はかならずある種の政治システムあるいは組織は必要でしょう。だけどそれは可能なかぎり表面に出ない、個人の自由や権利を拘束するような政治機構・権力をもたない、そういう状況を希求してさまざまな思想を生きてきた人たちをアナーキストと呼んでもいいだろうと、ぼくは考えています。権力はかならず腐敗するし、人民を抑圧する。それは人類の歴史が示しています。だからこそ、権力の亡者になるにちがいない暴力的な政治(機構)を不要とするような社会を希求した人がもった思想です。

 一九〇四(明治三十七)年に生まれて、一九二六年(大正十四)年に死去。ずいぶん若くして亡くなっていますが、病死じゃありません。大正天皇の長男である皇太子(後の昭和天皇)の暗殺を企てた嫌疑で逮捕、死刑の判決を受けました。その直後に恩赦があって、罪一等を減じられ無期懲役とされたのですけれども、恩赦に服することを潔しとせず、天皇の特赦状を破り、その三ヶ月後に獄中で首をくくって死んだ(といわれている)人です。この獄中死の真因はいまもなお不明です。(あるいは自死だったのではないか、とぼくは疑っています。今となれば解明の糸口は容易には見つかりませんが)

 彼女は生まれてから何年間かは籍をもたない存在でした。戸籍制度の上では存在しない存在だった。無籍者であったわけです。父親と母親は正式な婚姻関係を結んでおらず、しかも、その間に生まれたふみ子を戸籍にいれなかったからでした。このことは彼女の生き方の流儀に決定的な役割をはたしたとぼくはみています。存在しているにもかかわらず、その存在が認知されないという奇怪な状態を想像してください。

 実父は佐伯文一といって、横浜寿警察署の刑事をやっていた人。実母は金子とくの。二人は山梨県の諏訪村という山間の村で知りあい、その後横浜にでてきました。その間に金子ふみ子が生まれた。長女でした。でも、両親は法律上の婚姻関係をもっていなかった。さきほど申しましたような内縁の関係にあったのです。その二人の間に生まれたふみ子さんはずっと戸籍には入れられないままで少女期をすごすことになります。

 無籍扱いをされた子どもは、じゅうぶんにそのことの意味を知らないままであったと考えられますし、ある時期まではそのことが当人に致命的な影響を与えたとは思えません。でも、自分たちの子どもをそのようにあつかう親の気持ちはどういうものだったか。面倒だからとか、生死にかかわらないのだからということだったのか。このような境涯に自分がおかれていることを知るようになってから、という意味は、ふみ子自身に物心がついたということですが、両親や世間に対して、さらにはみずからに対してはっきりした直観を得たようにぼくにはみえます。もちろんこういう境遇を生きた人はそんなにたくさんではないにしてもいたでしょうし、今日でもおられるでしょう。しかし、当人の感情というものははかりしれないことです。

 戦前もそうだったわけで、だれでも六歳になれば国家がもうけた学校へ行かなければならなかった。でも出生届けがないために学校に行けないという状況がつづきました。近所の同い年の子どもたちがみんな学校に行くのに、自分だけがとりのこされる、その時の感情とはどのようなものだったでしょうか。おおきな傷となって、その後の生き方に深い溝を掘ったのではないかと思われます。終生、彼女はまともな学校教育をうけなかった、というよりはうけられなかった。そのことのよしあしをいうんじゃない。いってもはじまらないからでもありますが、事実として学校にかよわなかったことが、金子ふみ子の生き方を決定的に方向づけたという点を考えてみなければならないということですね。学校というところが一人の人間をどのようにするのか、ということを学校に行かなかった人間の側からとらえてみるということであります。

 宇都宮の刑務所に収監されて、ほんの三カ月ほどで書いた有名な獄中手記があります。『何が私をこうさせたか』というタイトルで、死後に出版されました。これはいまでも手にとって読むことができます。彼女はこれ一冊だけを後世に託して、一九二六年七月に獄中で死んでいきました。これもまた、彼女が世の中に投擲した爆弾であったといえば、言葉が過ぎるでしょうか。

 これを読むたびに、ぼくはある感慨に襲われます。こういうまっとうな人生、まっとうすぎる人生をよくぞ生きたなっていう感慨、にです。こんな言い方はおおくの非難をうけるだろうと思いながら、そういいたいのです。彼女の生涯は、日露戦争が終わって日本がだんだんと国家主義に走り出していく時期にあたっています。いわゆる脱亜入欧を敢行していく時期とかさなる。大正時代に入るといわゆる日本型産業革命がおこり、国力・軍事力の拡大・増進をはかって大国意識が国民のあいだにひろがった時期でもありました。

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