コロナも豪雨も、お呼びじゃない

 東京五輪の1年前セレモニーで、聖火がともされたランタンを手にしながらスピーチをする競泳女子の池江璃花子(2020年7月23日撮影)。(c)Du Xiaoyi / POOL / AFP(AFPBB News / 2020年7月24日 11時37分)
【AFP=時事】新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)で大会の開催が危ぶまれている中、延期になった2020年東京五輪の1年前セレモニーが23日、ほぼ空席の国立競技場(Japan National Stadium)で静かに行われた。(以下略)

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 コロナ禍がますます猛威を振るっている最中、延期された東京五輪の来年7月開催の一年前行事として、新設国立競技場にて、上掲写真のような催しが行われました。このことについて、ぼくは多言しない。(いまでも書くことは止めるべしという感情があり、それに対抗するように、証拠として書くべしという、内からの声もある)世界規模の新規感染者の激増やそのことによる死者が一向に減少しない事態にありながら、内外に向けて、これを強行(挙行)した意図はなんであり、それはだれのものだったか。国内的にも感染者が増大の一途をたどり、加えて、豪雨災害が各地を急襲しているのです。税金をばらまくだけばらまいて、おのれ一個の評価を高からしめんとしたというなら、もはや終わり。自他ともに、救われないとはこのこと。五輪の政治利用、コロナの政治利用、難病者の政治利用。国難とは、かかる愚昧・愚蒙が要路・要諦を占め続けている、そのことを指して言うのです。(ここに書きたくないのですが、「国辱」「国恥」a national disgrace. という言葉が頭からはなれない)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)