神話は神話らしいのがいいね

(鵜戸神社)

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 コノハナサクヤビメ神話は『古事記』によればつぎのような物語になっています。
 天降ったニニギノミコトは南九州の笠沙(かささ)の岬でオオヤマツミのうつくしい娘コノハナサクヤビメに出あった。ニニギは父のオオヤマツミに姫を妻にくれるよう申しこんだ。オオヤマツミはよろこんでコノハナサクヤビメに姉のイワナガヒメを添えてさしあげた。しかし、みにくい姉をきらったニニギはこれを送りかえし、コノハナサクヤビメと結婚した。

 オオヤマツミはひどく恥じて、「イワナガヒメをさしあげたのは天神の寿命が石のように不変であるようにという気持からです。コノハナサクヤビメを贈ったのは木の花がはなやかに咲くように栄えませという願いからです。姉をお返しになったために、天孫のお命は木の花のようにはかなくおなりでしょう」と申しあげた。このことによって天皇の寿命は長久(長命)ではないのだといわれます。(下の写真は岡山大山祇「オオヤマツミ」神社)

 この神話の原型とされる神話は東南アジアを中心に世界中に分布・流布しています。その典型を、中央セレベスのポソ地方のトラジャ族がつたえる神話によって紹介します(大林太良『神話と神話学』大和書房・1975年)。
 初め、天と地との間は近く、創造神が縄に結んで天空から垂らして下ろしてくれる贈物によって人間は命をつないでいた。ところがある日、創造神は石を下ろした。われわれの最初の父母は、「この石をどうしたらよいの?何か他のものを下さい」
と神に叫んだ。神は石を引き上げて、バナナを代わりに下ろしてきた。二人は走りよってバナナを食べた。すると天から声があって、
「お前たちはバナナをえらんだから、お前たちの生命は、バナナの生命のようになるだろう。バナナの木が子どもをもつときには、親の木は死んでしまう。そのように、お前たちは死に、お前たちの子どもがあとをつぐだろう。もしもお前たちが石をえらんでいたならば、お前たちの生命は石の生命のように不変不死であったろうに」

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 天孫が降臨する以前、この島には「国津神」「海津神」がいました。後から来た天神たちが、力をふるって、元々いた神々を退治するというのが記紀神話の主題であったというわけです。大和朝廷の成立とその権力に正当性を与えるために、このような神話を必要としたと考えられるでしょう。(左写真は海幸彦と山幸彦をまつる宮崎青島神社)

◆天津神(アマテラスの子孫)と国津神(オオヤマツミ・ワタツミ等)の戦いの物語
  ニニギノミコト(アマテラスの孫)の降臨―日向の国(笠沙の岬・現鹿児島県内)
  コノハナサクヤビメ(オオヤマツミの娘)―阿多の生まれ

         ニニギノミコト―コノハナサクヤビメ
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       ホデリ(海幸彦)・ ホスセリ・ ホオリ(山幸彦)
    (長男)        (次男)    (三男)

 海幸彦と山幸彦~兄弟の葛藤

*それぞれの幸(漁具と猟具)の交換します
*弟は兄の釣り針を紛失してしまい、許しを請うが兄は拒否する(兄弟喧嘩)。
*ホオリはなくした釣り針を求めて、海神(オオワタツミ)の宮へ。                 
*そこでトヨタマヒメ(海神の娘)(実は巨大なワニ)に逢う。 


       ホオリ ― トヨタマヒメ

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天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒコヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト

→ウガヤフキアエズノミコト

(火遠理命(ほおりのみこと)が海神の娘豊玉(とよたま)姫と結婚して生んだ子。叔母の玉依(たまより)姫に育てられ,のち結婚して,五瀬命,神武天皇を生む。産屋(うぶや)を葺き終わらぬうちに生まれた意の名。鵜戸(うど)神宮にまつる。)(マイペディア)

 ウガヤフキアエズ ― タマヨリヒメ(トヨタマヒメの妹)                        

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        ワケミケヌノミコト(成人した後の神武天皇)

◇「朝廷は、竹の名産地である南九州の隼人が、竹細工に関してすぐれた技能を持っていることを知っていたのである。竹器製作に隼人を用いたもう一つの理由は、隼人たちが身に帯びている呪力を重視したからであろう」(沖浦和光『竹の民俗誌』岩波新書)竹職人は「差別」の対象になったことがありました。そこにはさまざまな価値観や制度が混交していたのです。


 鹿児島県は薩摩半島の西南海岸に阿多(アタ)というところがあります。その南は笠沙、突端は野間岬です。そこには阿多神社があり、竹藪が茂っています。阿多隼人の集住地。
 「此地者韓国に向い、笠沙之御崎に真来通り而、朝日之直刺国、夕日之日照る国なり。故、此地は甚吉き地(ところ)」(『古事記』)

 「彼ら(阿多隼人)が持ち伝えてきた《竹中生誕説話》《羽衣伝説》《八月十五日夜祭》―この三つの民間伝承や民俗儀礼は、中国大陸の南部から東南アジア一帯にかけて広く分布している。さらにその源流を遡ると、ヒマラヤ山麓から中国の江南地方にいたる照葉樹林帯と、南太平洋の熱帯の島々まで辿り着く。この二つの地域は、《竹》の民俗文化圏であった」(沖浦・同上)


 詳細は面倒だから省きますが、かぐや姫が浦島太郎と合体しています。かぐや姫は天女であって、彼の国でよろしくないことをした罪で「汚れたクニ」に落とされたのです。もちろん、「竹取物語」も異なった二つの話が結合させられています。姫に対する求婚譚は後から孵化されたものだとされます。このごにんがそれぞれに特定の人物に特定されてもいるのです。みなみこうせつは出てきません。もちろん、神田川も流れていません。月からの死者に連れられて、姫はもとの世界に帰ります。遠くを見ると富士の峰から煙が立っていましたとさ。コノハナサクヤビメが祭られて頂上に神社に鎮座ましましています。富士登山は姫に会いに行くんですよね。今では入山(出会い)料を取られます。

 本店は富士宮神社です。だから、富士登山は本宮(一合目)から登るのが本筋だそうです。ぼくは楽をしましたが。(この項、まだ続くかどうか、思案中)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)