実をとりて 胸にあつれば 流離…

  のっけから、自問自答です。主題は文化(culture)について、です

 質問1・「文化」という言葉をきいて、どのようなことを想像(連想)しますか。

 質問2・文化という語に対して、どんな語が対応(対語)しますか。

 質問3・刃物の種類に「包丁」があります。どういうわけだか「文化包丁」などとといわれます。なぜでしょうか。また文化住宅や文化鍋などともいいますが、その共通する意図は?

 今では、この島のいたるところに「文化会館」が林立しています。「文化」があふれそうだから、建物内に閉じ込めようという魂胆か。中に入ると、空虚だったり。(東京上野の東京文化会館、いったい何回通い詰めたか。前川国男設計)

 正解はありそうでなさそうで。なんとでも言えますからね。さて、「文化」とは?

 その包丁です。「中華包丁」。これを日本の包丁とくらべてみれば、種類の少なさが顕著に認められます。その理由はどこにありますか。耕作につかう農具も大工道具も、日本ではやたらに数が多い(ノコギリでもカンナでも、カマでもクワでも)のに対して、お隣の韓国や中国さらには東南アジアの諸国では実に単調なものです。そのちがいはどこから来るのかという問題でもあります。「文化」をとらえる視点を外さないようにしたいですね。(右写真は住まいから車で三十分ほどの田んぼの中にある「文化会館」、森閑というか、閑散というか。散散といいますか。入るのが怖いよう。「8月のおはなし会」の案内が。これも立派な「文化」か)

日時 2020年8月22日(土曜日) 10時30分~
場所 文化会館 和室
対象 幼児から小学生向けです。 大人も参加できます。
参加人数 20名まで
受付 電話受付先着順
主催 長生村読み聞かせボランティア「くりくりブック」
お問合せ 長生村文化会館 長生郡長生村岩沼2119番地
TEL 0475-32-5100

●今も昔も漢語(中国語)で「庖」は「台所」を意味する。一方で、古代の漢語における「丁」は、担税を課することに由来して「召使としての成年男性(※古代中国の律令制で成年男性に該当するのは、数え年で21歳から60歳までの男性)」を意味し、「園丁」や「馬丁」という熟語があるように「その職場で働く成年の召使男性」の意味合いで用いられていた。したがって、「庖」と「丁」の合成語である「庖丁(拼音:cìdīng、páodīng、ほか)」は「台所で働く成年の召使男性」を指すものであった。日本語「庖丁/包丁」の語義の一つには今も昔も「料理人」「料理役」「料理番」があるが、刃物のことではなくこれこそが最も古い漢語の語義の流れを引き継いでいると言える。(wikipedia)

 「日本文化」という場合、いったいどのようなことがいわれるのでしょうか。今から何万年か前(十万年前とも)に、この列島に住み着いた人々がいたことはたしかですが(集住するようになったのは三万年前くらいとも)、そのような人々が、それこそ「万世一系」(永久に同一の系統の続くこと。特に皇室についていう)をつらぬいて、現在に至ったとはとても考えられない。(今日の「万世一系」はたかだか数世代程度か)
 その一例ですが、竹を材料にして、このことを考えてみましょう。元来、竹は(亜)熱帯地方の植物ですから、この(日本)列島には自生していなかった。だから、いつの時期にか、南方の民族が舟(船)に乗ってはるかに離れた東の列島(日本)に流れ着いたと考えてもいいでしょう。まるで「椰子の実」のように。(今ではこの島はれっきとした「熱帯」地方となった感があります)「竹取物語」も「浦島太郎」も潮の流れに乗って、「なれはそも波にいく月」かけてか、漂着したのか。

   椰子の実

  名も知らぬ遠き島より
  流れ寄る椰子の実一つ
  故郷の岸をはなれて
  なれはそも波にいく月
  
  もとの樹は生いや茂れる
  枝はなおかげをやなせる
  われもまたなぎさを枕
  ひとり身のうき寝の旅ぞ
  
  実をとりて胸にあつれば
  新たなり流離のうれい
  海の日の沈むを見れば
  たぎり落つ異郷の涙
  思いやる八重の汐々
  いずれの日にか国に帰らん (島崎藤村作詞・ 大中寅二作曲)

  柳田国男という日本民俗学を生み出したといわれる人は、まだ二十歳になる前に、大きな病気をし、愛知の伊良湖岬に養生のために、しばらく滞在したことがありました(1898年)。散歩にはよく伊良湖海岸に出かけたといいます。ある時、海岸に今着いたばかりというような青々として椰子の実が流れ着いていた。彼はいろいろなことを考えたそうです。この想像力が、最晩年に書き上げられた『海上の道』という著作に連なっていくのでした。 

 遥かに昔、我々の祖先となった人々は小さな、丸木舟(だったろう)で何度も何度も挑戦し、荒い潮の流れに乗って、のちに「日本列島」と称される島々を目指した(かどうか、わからないが)という。何度失敗しても次々と代を次いで小舟で小さな島を目指した。沖縄を経由して九州のある地方をとおり、ついには本州に到達し、伊良湖にも来たに違いないという仮説です。(愛知とは、アユ、アエルというように、さまざまなものが混ざり合って漂着したところから名付けられたというのが柳田説。和え物などという、その「和え」です)

 病が癒えて東京に戻った柳田青年は、この経験を親友の島崎藤村に話したところ、藤村は「これはもらったよ」といって、のちに「椰子の実」という詩を書いた(1901年「落梅集」所収)。それに曲をつけたのは大仲寅二さん(1936年。息子は恩で、「サッちゃん」「いぬのおまわりさん」など作曲、その詩を書いたのが従弟の坂田寛夫)。柳田さんいわく、「詩人というものは、あんなふうにものごとを考えるもんなのだな」と意外の感に打たれたといいます。

 椰子の実が流れついたのは「海上の道」を流れてきたからだという、柳田さんの仮設は椰子の実を「人民」に変えた。先に述べたように、南方のある民族(人種)がさまざまな生活万般とともに、それに伴う「文化」をこの島に持ち伝えたのだと。米も、歌も、物語も、植物も。つまりは文化(生活様式)といわれるものを携えて渡ってきた。そして、悠久の時の流れを経て、今に至ったのだというのです。この仮説は、今では正しいものとは言えないようですが、いかにも文学感情の多かった、詩情豊かな柳田さんらしい逸話ではありますね。(つづく)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。