しきしまの大和の国は…

 前回のつづきです。

 どのような観点から「劣島の文化」をとらえたらいいのか、この点に関してはさまざまな見方やとらえ方ができます。これしかないというかたよった立場を取らないようにして、すこしばかり日本の政治風土というものの背景(歴史)を考えてみようというわけです。

 いつの時代であれ、いきなり「日本文化」というものが出現したはずはありません。また、後に日本劣島と呼ばれるようになるいくつもの島々にはおよそ十万年以前に人類が住んでいたといわれています。その後、少しの間隔をおいて徐々に島々に人々が集まって住みだしたのです。もちろん、まだそれが「日本劣島」と呼ばれていたわけでもなければ、「日本人」が存在していたということもできません。日本も日本人も日本海も日本大学も、つまり日本文化というものはも、ごく近間・近年の造作物なんです。

 おそらく国号「日本」が作られた(使われた)のは七世紀以降のことで、そのときただちに「日本人」が生みだされたのでもないのです。その当時は外国(随・唐)から「大和」(倭・ヤマト)などと呼ばれていましたが、「(のちの)日本」以外の国が存在してはじめて国名が必要となるのです。近隣の諸国が「倭」と呼びならわしていたのが、ずいぶん後に「日本」となったのです。「日の本」(太陽の出るところ)と、自分自身のことを言い表しました。

 「日本劣島」に住んでいるぼくたちは「日本語」を話し、「日本の学校」に通い、「日本の文化」を身につけている、だから「日本人」ということになっていますが、もともと「日本国」があり「日本人」がいたわけではなく、したがって「日本文化」というものがあったわけではないのです。有史以来といいますが、ずっと名無しの権兵衛・権子(ごんこ)だった。でも確かな生活の歴史は続いていたのです。

 「日本」とは7世紀以降、《小帝国を志向し、東北・南九州をふくむ周囲の地域に対して侵略によって版図(はんと)をひろげることにつとめた、いわゆる「律令国家」の確立したとき、その王の称号「天皇」とセットで定められた国号》(網野善彦)なんです。

しきしまの大和の国は 
言霊の 
さきはふ国ぞ 
まさきくありこそ
 
     万葉集巻13-3254 柿本人麻呂 

 有史以前の「国盗り物語」

 「天孫降臨」神話~これは日本だけのものではなく、おとなりの韓国にも同じ輪郭・骨組みをもった神話が存在しています。ひょっとしたら同根かも知れません。

 天から天照大神(アマテラスオオミカミ)の孫が降りてくる以前に、劣島を支配していた神々がいました。それがオオヤマツミであり、クニツカミでした。さらには海を支配していたワタツミ(海神)もいました。したがって、アマテラスの孫が「降臨」してからはそれらの神々と国の支配権をめぐる戦いが始まり、ついにはアマテラス一派が勝利を収めるという、国盗り神話になるのです。

 それは、奈良(大和)朝廷がこの劣島のあちこちに住んでいるさまざまな人々を従えるための闘いの歴史でもありました。その中には「隼人」(はやと)もいましたし、「熊襲」(くまそ)もいましたし、「蝦夷」(えみし)も「アイヌ」もいました。

(くま‐そ【熊襲・熊曾】上代の九州南部の地域名。記紀などにみえる種族。九州南部に勢力を張り、勇猛で大和朝廷に反抗したが、景行天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)に討たれたとされる。「くま」は肥後の球磨(くま)地方、「そ」は大隅(おおすみ)の贈於(そお)地方の意という。)(えみし【〈蝦夷〉】「えぞ(蝦夷)」の古名。)

(アイヌ・《アイヌ語で人の意》北海道・樺太(からふと)(サハリン)・千島(クリル)列島に居住する民族。狩猟・漁労・採集を主とする自然と一体の生活様式をもち、吟誦形式の叙事詩ユーカラが伝わる。室町時代から和人との交渉が生じ、江戸時代には松前藩や商人などに従属を余儀なくされ、明治以後は同化政策のもとで言語など固有の慣習や文化の多くが破壊され、人口も激減した。)

● 天孫降臨(てんそんこうりん)神話=天皇家の由来と古代国家の起源に関する神話。6~7世紀の成立とされる。古事記・日本書紀によれば,天照大神(あまてらすおおみかみ)が孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に神宝(三種の神器)を与え,天壌無窮の神勅を発し,天児屋(あめのこやね)命などの神々を供に高天原から日向(ひむか)の高千穂峰に降臨させたという。天皇家の絶対的神聖化を意図する神話で,天壌無窮の神勅は敗戦まで日本の国体の基礎をなすものとされていた。(マイペディア)(写真左は宮崎瓊瓊神社)

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 宣長さんが著した『古事記伝』によって、ようやくこの島が歴史時代に入る前に、どんなことが行われていたかを含めて、「ふること」(古代の事績)が明らかにされたとも言えます。およそ三十五年の年月をかけ、医者の傍ら「古事記研究」を続けた。どうしてか、話せば長い物語ですが、要するに、『古事記伝44巻』は、まず「日本書紀」を読み、賀茂真淵に私淑し、古道・古学(それは宣長流国学となる)に打ち込む決意を決めた、彼の情熱のなせる偉業でした。今日、ぼくたちが「古事記」を何とか読めるようになったのは宣長先生のおかげでした。(それは、この雑文の主題とは違いますので、ここで中止)

 次回からは、日本の昔話を。「桃太郎」「浦島太郎」「竹取物語」などなど。奇想天外というか、荒唐無稽というか。それをまじめに信じていた時代や人々(大人たち)がいたんですね。宣長さんはどうでしたか。今は昔の…。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)