無謬史観への加担に…(承前)

 ■衝撃から立ち直る力こそ必要 精神科医・斎藤環さん(朝日新聞記事より)

 俗に「トラウマ漫画」と呼ばれる作品があります、暴力や差別など人間の暗部をテーマにしたり、それを表現するためにあえてショッキングな場面を描いたりして、読者に強烈な印象を残す漫画のことで、「はだしのゲン」もその一つに数えられることがあります。

 私自身、子どもの時に学校で「ゲン」を読んでショックを受けました。原爆投下直後、大やけどを負った人々が、自らの皮膚を垂れ下がらせつつ、さまよい歩く。だが、絵としては漫画的に様式化、抽象化されています。描かれた事実は残酷だが表現は控えめで、一定の配慮がされているとさえ言えます。

 究極の性善説 にもかかわらず、「ゲン」が今になって問題視されるのは、「刺激的な表現は子どもの心に傷を残すから、極力見せるべきではない」という考えが世間で強まっているからでしょう。それと似ているのが「学校現場からいじめをゼロに」という主張です。両者に共通するのは「子どもは純粋無垢(むく)な存在なので、できるだけ悪影響を受けない無菌状態で育てさえすれば、まっすぐ育つ」という、究極の性善説です。

 しかし、現実には子どもたちを「無菌状態」に置くのは不可能だし、決して望ましくもない。いじめについて言えば、学校でいじめを体験せずに社会人になってから初めて直面すれば、より大きなパニックに陥ったり、深く傷ついたりすることもあるでしょう。重要なのは、実態とかけ離れた「いじめゼロ」を目指すことではなく、いじめが起きた時にどう対応し、子どもたちをどうケアするか、という実践的なノウハウを蓄積し、共有することのはずです。

 それと同様に、子どもを刺激的な表現から遠ざけることにばかり心を砕くべきではありません。むしろ、戦争や核兵器に対して本当の恐怖心を持つには、「ゲン」を読んだり原爆資料館を訪れたりして、ある程度のショックを受けることも時には必要ではないか。

 物語が傷癒やす 衝撃的な体験がトラウマになってしまうのは、見聞きしたことを「わけの分からない怖いもの」と認識してしまうからです。現在のトラウマ治療では、衝撃的な体験について「実は、これこれこういうものだ」と解釈・説明し、本人が納得できる物語を与えることが、傷を癒やし、精神的成長を促すことにもつながる、という考えが主流です。刺激的な表現から守ろうとするだけでは、子どもの成長の機会を奪いかねません。

 「ゲン」についても、子どもたちの関心が高まっている今こそ、学校で積極的に教材として取り上げて欲しい。「ゲン」には、物理学者のアインシュタインが積極的に原爆開発に加担したかのように描くなど、事実と違う部分もあります。「この漫画には偏りもあるが、全体としてはこんなメッセージがある」と教師自身が解釈・説明し、読み方を教えればいい。

 ただし「事実を説明する物語を与える」ということは本質的に主観的な行為であり、「事実関係をありのままに伝える」という表面上の客観性とは両立しません。トラウマを乗り越えられるほど説得力のある物語をつくるには、自らの価値観に基づいて事実を取捨選択したり、特定の事実を強調したりすることが不可欠だからです。客観的な情報や両論併記が増えるほど、何を言いたいのかよく分からなくなり、物語としては破綻(はたん)せざるを得ない。

 現代は主観的であることが難しい時代です。微妙な問題について何の留保もなく意見を表明すると、すぐにネットなどでたたかれる。先の戦争をどう考えるか、という問題はその典型です。松江市教育委員会が「ゲン」の閲覧を制限した主な理由も、旧日本軍の兵士が中国人男性の首を切り落とす場面などがあったことでした。実際に「ゲン」を学校で教えようとしても、周囲からの反発は避けられないでしょう。

 だが、大人が保身のため中立的であろうとするあまり、子どもたちに物語を与えるのをさぼってはいけない。人が衝撃から自力で立ち直れるようになるには、自らの経験を物語として再構成する力を身につけることこそが、必要だからです。(聞き手・太田啓之)

 さいとうたまき 61年生まれ。筑波大学教授。専門は引きこもりなど思春期・青年期の精神病理学。近著に「世界が土曜の夜の夢なら」「原発依存の精神構造」。(朝日新聞・13/09/21)

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 「はだしのゲン」問題は一件落着したかにみえますが、問題の根っこは断たれていないと思います。ある立場の人(びと)が、「これはよくない本だ、(映画だ、教科書だ)」と強面でいえば、きっとそれは「よくない本」になってしまうという、世間に吹く風は空恐ろしい。この厄介な風はいつでもも吹き荒れるのです。「この教科書はわれわれ(教委)と意見が違う」、だから採用してはならないと教委の誰かが言えば(教委の後ろに誰かが、またその後ろに誰かが、じつはただの影あったりします)、それが全体の意向になってしまう。それはおかしいと異議を唱える余裕を失ってしまった社会(集団)は、きっとさらに進んで異論を許さない方向に走るはずです。異論の排除から進んで、異質の存在排除に向かうのは容易に想像できます。

 おかしいからおかしいと、ぼくはそれには「こういう理由で賛成しない」という手間を省かない選択もまた、ぼくたちには必要な態度であると言いたい。異論を述べるのもまた、ひとつの紛れもない人間の自由であり、権利であるということを、この「はだしのゲン」の場合を糧として学びたいと強く思います。でかい声がなし遂げようとするのは、いわば無謬史観とでもいうような、荒唐無稽な歴史観への遁走であり、自主規制する行政の措置は間違い何し、その過ちに加担することになるのです。

 対象が何であれ、それを表現する自由は認められなければならない。そのうえで、「私はこの作品は(あまり、あるいはまったく)評価しない」という姿勢もあるはずです。「民主主義」ということばを出す必要もないのですが、「ぼくはあなたと意見を異にする、しかしあなたの意見は理解できる」という具合に互いを認める態度もまた、ぼく(たち)には大いに欠けているのだと、これまでの生活からしみじみ学んできました。

 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、それは「その人を憎むあまり、その人に関係のあるものすべてが憎くなるというたとえ」(デジタル大辞泉)だそうです。こんな表現でもいわれています。Love me, love my dog. 「はい」という人もいるでしょうが、「いやそれは、犬アレルギーだから」と御免被る人がいてもおかしくない。全肯定も全否定も、いかにも了見が狭いという気もするのです。ああも言えるし、こうも言えるという「揺らぎ」「ゆとり」も生きる中では水や空気のように不可欠なマインドじゃないですか。

 「風靡する」というのは、とても望ましいようでも、やがて見向きもされなくなることは往々にして起こり得ます。誰が言ったにしろ、「あんなものは締め出せ」という強風、いや暴風はやがて止む、必ず止みます。いったいどういう「風」だったのかとすっかり忘れてしまいがちです。「のど元過ぎれば、熱さを忘れる」といい、「羹(あつもの)に懲りて、膾(なます)を吹く」という事態に終わるのかもしれません。滑稽でもあるでしょう。ぼくは、「のど元で感じた感覚」を忘れたくない。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。