有を無にする、自主規制の闇

 笑うべきか、嘆くべきか、自主的な「検閲」の隠された意図

(耕論)不良図書と呼ばれて 高橋ヨシキさん、斎藤環さん (以下は朝日新聞記事より)

 過激な表現って何ですか。それって誰が決めるんですか。見せなきゃそれでいいんですか――。松江市教育委員会の要請による「はだしのゲン」の閲覧制限は解かれたが、解かれず残った疑問も多い。どう考えますか、あなたなら。

 ■「臭いものにフタ」よほど有害 デザイナー・ライター、高橋ヨシキさん

 「はだしのゲン」の描写は、問題があるどころかもっと残酷でも構わないと思います。おおっぴらに人を殺せる立場に置かれた時、人間はどうなるか。野蛮で残虐なことを成し得る本性を「過激だ」なんて理由で隠そうとするのは、人は排泄(はいせつ)をしないと教えるのと同じくらい、愚かしく危険です。

 ムラ社会の論理 だいたい、「過激な表現は子どもを傷つける」とか言ってますけど、子どもにとって本当に有害なのはどっちなんだって話ですよ。自分の思想信条と相いれない本だから気に食わない、図書館から撤去しろとクレームをつける大人。「臭いものにはフタ」とばかりに、納得のいく説明もせずに閲覧制限を「お願い」する大人。それに唯々諾々(いいだくだく)と従う大人。そんな大人が形作る現在の日本社会のありようの方が、はるかに有害です。そういう日本的なムラ社会の論理にはじかれ、傷つけられ、生きる世界を狭められて、自ら命を絶つ子どもが大勢いるんだから。

 今、東京でのオリンピック開催を批判すると非国民扱いです。ムラ祭りでみんな気持ちよくなっているんだから邪魔するな、邪魔すると村八分だぞと。もちろんそんなこと、言語化されませんよ。言葉じゃなくて空気で人を動かす。それがムラ社会ですから。同調圧力というか相互監視というか、オリンピックであれだけ盛り上がっているのは、「みんな一緒」を確認せんがためでしょう。

 何にでも「国民的」をつけたがるのも、その一環です。AKB48は「国民的アイドル」、宮崎駿監督作品は「国民的アニメ」。宮崎監督が引退宣言すると「宮崎アニメ、あなたのベストは?」なんて聞いて回る。国民なら見ていて当たり前ってことですか? 冗談じゃないですよ。「国民的」にみんなが無批判に乗っかっていく風潮と、そんなヌルい状況を揺さぶるような表現を「過激だ」といって排除したがる風潮はコインの裏表で、それを支えているのは、本や映画を、「泣いた」「笑った」ではなく、「泣けた」「笑えた」と評するタイプの人たちです。

 彼らにとって表現は、自分が気持ちよくなるためのツールでしかない。映画「美女と野獣」を見て「泣けた」とか言うわけですよ。だけど自分が、野獣を「殺せ」と取り囲む側の人間かもしれないということには想像が及ばない。

 リンカーンの偉大さに感動しても、自分が、奴隷制を支持して黒人を人間と認めなかった大多数の側の人間だったかもしれないとは思わない。ナチス政権下でもフランスの恐怖政治の時代でも、それに異を唱えた人の偉大さを理解するためには、それ以外の人たちがいかに、いわゆる「凡庸な悪」に染まっていったかを理解しなければなりません。すぐれた表現とは、そういう多面的なものの見方を提示してくれるものです。なのに、常に自分が気持ちよくなれる側の視点に立って、「泣けた」。

 やっぱりバブルの頃からですよ、こんな堕落が始まったのは。広告会社主導で一連のうつろな映画やトレンディードラマが作られるようになり、見る側も消費者化して、俺たちが気持ちよくなれるような「商品」をよこせという考え方が浸透してくる。その傾向は、その後の不景気に後押しされてどんどん強まりました。

 低レベルな共犯 さらに、世間の意向を過度に忖度(そんたく)することで成り立っているテレビ局が斜陽の映画業界に参入し、「製作委員会」方式で出資企業を集めて映画が作られるようになった結果、どこからもクレームがつかないことが最優先された、大人の鑑賞に堪えない「お子様ランチ」のような作品だらけになってしまいました。表現の質が下がれば観客のリテラシーが下がり、それがさらなる質の低下を招く。お子様ランチを求める観客と、お子様ランチさえ出しておけば大丈夫とあぐらをかく作り手。そのレベルの低い共犯関係が社会にも染みだしてきた結果が、いまの「国民的」ムラ社会なのでしょう。

 状況は絶望的です。僕に言えるのは、せめて「多数派の論理」に振り回されないよう、「みんな一緒」を確認し合う状況からは距離をおき……なんて、あまりに無意味で無力で、自分で言ってて泣けてきますけど。(聞き手・高橋純子)

●たかはしヨシキ 69年生まれ。ホラー映画を中心に映画宣伝ビジュアルを担当。「冷たい熱帯魚」の脚本を園子温監督と共に手がける。近著に「悪魔が憐(あわ)れむ歌」。(朝日新聞・13/09/21)(つづく)

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●「はだしのゲン」=自伝的な作品で、作中のエピソードの多くも中沢が実際に体験したことである。作者は当作を反戦漫画として描きたかったのではなく、それ以上に「踏まれても踏まれても逞しい芽を出す麦になれ」という「生きること」への肯定の意味を込めて「人間愛」を最大のテーマとして描いていた。

母親を火葬した際に骨が残らなかった、という作中にもあるエピソードが、中沢に広島原爆の被爆を題材とした漫画を描かせるきっかけとなった。

発表分の末期は終戦から何年も過ぎた戦後の内容となっており、昭和天皇に対する批判やアメリカ軍およびアメリカ合衆国に対する批判、警察予備隊(後の陸上自衛隊)発足に対する批判する内容も含んでいる。ただし、その時期の話にも原爆の傷痕は根強く描かれている。

時代考証の間違いや左派的な主張をはじめ、作品の内容、表現などについて様々な意見があるが、作者の中沢の実体験に基づく原爆の惨禍や当時の時代背景・世相風俗を表現していながら、エンターテインメントとしても読ませる作品として国内外での評価は高く、映画・ドラマ・アニメ・ミュージカル・絵本・講談化もされている。2010年6月調査のgooランキング「読んでおきたい日本史モノマンガランキング」の第1位に選ばれた。(以下略)(wikipedia)

●「はだしのゲン」を単行本化した汐文社のweb=https://www.choubunsha.com/special/hadashinogen/

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その作品は目障り」だから消せ(どけろ)、こんな風潮が蔓延しているように見えます。言葉を以て説明しても「問答無用」といわぬばかりの勢いに気圧されてしまう。「差別語」だから使わない、言い換えを考えなければ、というこの島社会の「風紀」というか、潮流というか。(ここで「風紀」という言葉を使うのは場違いかもしれない。その昔、中学校であったか、ぼくは「風紀委員」にさせられました。何をするのか、わからなかった。成人してからその意味がよく分かったが。「社会生活の秩序を保つための規律。特に、男女間の交際についての節度。」(デジタル大辞泉))

 面倒を避けたいという側面と、「長い物には巻かれろ」というご都合主義が合わさって、過剰規制や過剰自粛をしてしまうのでしょう。現下の状況でも「自主警察」などという聞きなれない言葉があふれているだけでなく、さまざまな軋轢を生んでいる。これは決してこの島だけの問題ではなさそうで、西でも東でも生じています。ということは、潜在的にはつねに問題は存在しているのであって、いったん口火が切られそうになる(きっかけが与えられる)と顕在化するのでしょう。「はだしのゲン」問題にもいくつかの視点が不可欠ですが、ここでは一つだけ言っておきます。

 この漫画は貴重な体験を表現している「優れた作品」だから消してはならないという主張に、ぼくは同意しない。「まずい作品」なら消してもいいのか。表現の自由という観点から言えば、いい意見だから主張を認め、嫌な意見だから発言を封じるというのは間違っていると思いますね。気に入る、気に入らないで、物事を短絡して判断する危険性というか、了見の狭さに違和感をいだくのは、どなたにも認められるでしょう。いや認めん、といわれたら、さてどうする(?)(この項、つづく)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)