ゆきが ゆうゆうふって来た(承前)

 あるとき、加藤さんは四年生の担任から「いちど綴方の授業をみてください」と頼まれたことがありました。授業をすすめていると「ただひとり、窓のほうを見ている女の子がいる。ボタボタ雪が落ちている。黙って見ているんですよ」気になったけれども、そのままにして授業を終わらせた。すると、その女の子がスーッと前に出てきて、「わたしの前に紙を上げていたのです」

ゆきが
ゆうゆうふって来た
あばが
なんぼなんぎしてゐるべ
おど
やまさえがねば
なんのごともないども
あら
ゆきがはれた
えがたなあ
こだ
げんきにふいでいるべ
おど
やまさえて
ふるまのままくたべか (河辺、上北手、四年女)

 「こらあっ、どこ見てる、こっち見てろ!って、いわないでよかったなあ。この子はとっぷり自分の気持ちに浸っていたわけだね」                    

 加藤学級には、こんな子どもたちもいました。

 清之助の家は「極貧」だった。「清之助はいつも、窓きわの前から二番目の机で、だまってよだれで字をかいている体の少年」だった。病弱で留年してこのクラスに入った豊美という子がいました。その子はじっと清之助を見ていた。

木のなみだ                                豊美

秋がきたら
木がないた
はのなみだ
ばらばら
おとしてる。

めんこ                                    清之助

豊美は わたしのところを先生
のめんこだといへます。
私はただ笑ってる。

 その豊美さんは卒業を待たないで亡くなりました。

 同じ時期に、南秋田の金足西小学校に鈴木三治郎さん(1908~75)という教師がいました。クラスの子どもたちにはいつもいっていた。「言葉など飾らなくていい。ありのまま、感じたままをその通りに書くのだ」

そして昭和六年、次の詩がクラスから生まれたのでした。(既出)(右下写真は金足西小の歌碑) 

きてき                         金足西小、四年 伊東重治

あの汽笛          
たんぼに聞こえただろう
もう あばが帰るよ
八重蔵
泣くなよ

 「これが北方教育の叙情だ」といって、たくさんの教師たちの前に「きてき」をつきつけたのは山形の国分一太郎でした。その国分さんは昭和九年十一月、仲間をさそって「北日本国語教育連盟」を結成。翌年には機関誌「教育・北日本」を創刊することになります。

 《子どもたちは生活の危機にさらされ、かつかつの生存権の確保のため、学習の権利をすら奪われがちである。このような状態から子どもたちを救い、彼らの将来の幸福を保障するためには、子どもたちの教育の上でも、現実におし流されてしまう子どもをつくるのではなく、どんな状態のなかでも生き抜いていく意欲の旺盛な子どもを作らねばならないし、この現実を変革していく方法を追求する知性をもった子どもに育てなければならない》(国分一太郎「北方性教育」『生活綴方事典』所収)

 《どこまでも、生活にしがみついて、自分をうちたてていこうとする意志は、現実なる諸条件のうそでない認識から明朗に発足すべきものだ。/皮肉と風刺の中におちこむ超越的態度を警戒しよう。/おっかぶせて子どもを引きづる観念的な盲信を反省しよう。/ここにのみ、ぼくたちの子どもたちとともに、彼らの生活を愛する情熱が生まれてこようというものだ。この情熱的実践行を、ぼくたちは時代の教育者として態度する》(成田忠久「実践の方向性」『北方教育』第十四号。昭和九年八月)(既出)

 東北の寒村にもたくさんの「子どもと歩く」「子どもと生きる」教師たちがいました。世に「北方教育」といわれた教育・生活の実践者でした。彼ら・彼女らは、やがて「権力」の弾圧によって一網打尽にされ、辛酸を舐めるのです。

_________________________________________________

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。