階段を一段ずつ、時には飛び越せ

 私の先生

「階段一段ずつ」の教え…北村英治さん ジャズ・クラリネット奏者

 今も尊敬しているのが、国文学者の池田弥三郎先生。慶応商工学校(旧制中学校)2年生の時、国語を教わりました。

 先生は当時、20歳代後半。戦時下にもかかわらず、「人間の歴史はとてつもなく長いのに、針でつついた一点くらいでしかない戦争に一喜一憂するなんてとんでもない」とべらんめえ調でまくし立てる。驚きました。   

 勉強が嫌いで2回もダブってしまった僕を、先生は「友だちが倍に増えるんだから、幸運だと思え」と励ましてくれた。「急がず、階段を一段ずつ確実に上がっていくことを心がけろ」という言葉が胸にしみました。

 慶応大学の文学部に進学したけれども、学生バンドの活動に精を出し、授業はそっちのけ。2年になり、プロの誘いを受けました。大卒の初任給が5000円弱だった時代、月給3万円と提示されて心が動いたけれども、「大学を出てからでも……」との思いも捨てきれなかった。

 先生に相談すると、「一生できる仕事なのか?」といい顔をしない。「階段を一段ずつという教えを覚えています。先生は言わなかったけれども、その一段がどれだけ重要かも分かっているつもりです」と伝えました。最後に「月給3万円」と説明すると、先生は顔色を変え、「大きな声じゃ言えんが、大学をやめてバンドマンになっちゃえ!」と背中を押してくれました。

 全部は教えず、含みを残して生徒に考えさせる人だったから、僕の言葉に満足してくれたのかも。いま、先生の息子さんとも交流がありますが、親子2代にわたっておつきあいできるのは、先生の人徳のなせる業でしょう。(聞き手・保井隆之)

プロフィール  きたむら・えいじ

 1929年、東京都出身。51年にプロ活動をスタート。日本のジャズ・クラリネットの草分け的存在で、海外でも活躍。60年以上にわたる音楽家生活で吹き込んだ作品は100枚を超える。78年、日本ジャズ界最大の栄誉とされる南里文雄賞受賞。(読売新聞・12/06/14)

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 日本のジャズ界を先導してきた北村さん。高校時代の恩師が池田弥三郎さん。いかにもありそうな師弟の関係、傍目からは実にイキではないかと思います。池田さん銀座の有名な天ぷら屋のせがれ(お店はとっくに廃業された)。ぼくも何度か通ったことがある老舗です。後年、民俗学や日本文学などなどの領域で大きな仕事をされた方でした。その池田氏の恩師が折口信夫(釈迢空)さん。柳田國男氏と並ぶ日本民俗学の泰斗と称されたし、古代文学に独特の理論を展開され、ぼくなどは大いに興味を与えられた方でした。(折口ノーとなるものを何冊も書き残して、とうとうものにできませんでした)

 天づたふ日の昏れゆけば、わたの原 蒼茫として 深き風ふく(釈迢空)

 池田氏と北村さんの結びつきは、どこにでも見られるものであるようでいて、この二人に独特のものだったというべきかもしれません。「師の恩」などは、今では使われなくなった言葉でしょうが、その意味するところはきっと固く残されているにちがいありません。(余談ですが、ぼくが今住んでいるそばのマンション、これも山中にあるのですが、ここに渡辺貞夫さんが住んでおられ、ときどきサックスの練習ぶりが聞こえてくると、よく行く喫茶店のマスターに教えられました。ぼくはまだ、その漏れ来る音を聞いたことがありません)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)