権力が腐るのか、腐るのが権力か

 腐敗を防ぐ市民の目

 市民の目が届かない権力は必ず腐敗します。主権者の「知る権利」に奉仕する自由なジャーナリズムは、民主社会の基盤であり腐敗防止に不可欠です。

 「権力は腐敗する」と言ったのは十九世紀の歴史・哲学者であるJ・E・アクトンです。近代国家では、この「権力=腐敗」を前提に制度上の工夫をいろいろしてあります。

 代表的な例が日本国憲法も採用している三権分立制です。立法、行政、司法という三つの権力がそれぞれ独立し、監視し合い、牽制(けんせい)し合って、相手の勝手な振る舞いを防ぐ仕組みです。

◆“暴走”は問題の矮小化

 それでも権力は腐敗します。国民の目が届きにくいところで、違法な、あるいは不当な権力行使が行われるようになります。

 大阪地検の特捜部検事による証拠のフロッピーディスク(FD)改ざんを、単なる個人の暴走と見るのは問題の矮小(わいしょう)化でしょう。

 上司は内部告発を無視して改ざんを隠ぺいした疑いがあります。容疑者に対する虚偽自白の強要、保存すべき取り調べメモの廃棄など、ほかにも不祥事が次々明るみに出ました。FD改ざんは検察組織の腐敗の象徴なのです。

 アクトンは冒頭の言葉に続けて「専制(絶対)権力は絶対的に腐敗する」と言い切りました。/専制権力は言い過ぎとしても、検察は強大な力を持っています。人の身柄を拘束でき、起訴・不起訴を決める権限をほぼ独占し、起訴相当の事件でも事情によっては起訴しないことができる「起訴便宜主義」も認められています。

 この力の大きさ、怖さを自覚しないでゆがんだ正義感に酔ったり功名心に駆られると、逮捕された検事の前田恒彦容疑者らのように、権限を恣意(しい)的に利用し違法行為をすることになりかねません。

◆“監視”で生まれる緊張

 検察は情報公開に極めて消極的で、検察の意に反する報道をした記者にしばしば「出入り禁止」と称して取材拒否します。/透明度が低く、内部の空気がよどんでいる組織は、必ずといっていいほど腐敗が起こるのです。

 それを未然に防ぐための最も有効な手段は、市民による監視を徹底することです。外部の風にあたり、監視されていると意識することで公権力側に緊張感が生まれ、腐敗防止に役立ちます。

 情報公開法を制定するなど市民を公権力の内部に立ち入りやすくする諸施策が、一九〇〇年代から大幅に進展しました。司法とその関連分野でもさまざまな改革が行われました。

 裁判所には裁判員制度が導入され、裁判官指名諮問委員会、家庭裁判所委員会など外部の声を生かす制度もできました。

 刑務所には有識者が視察して意見を述べる刑事施設視察委員会が設けられました。警察の事務執行は有識者で構成する警察署協議会が監視するようになりました。

 しかし、検察に関しては、不起訴にした事件について検察審査会が「起訴相当」と二回議決すれば強制起訴、となったほかはめぼしい改革がありません。

 ほとんどの検察関係者は「公益の代表」たる立場を守って適正に職務を遂行していますし、検察の仕事は人権にかかわる事項が多いので微妙な要素もありますが、積み残された改革「検察の透明化」を実現しなければなりません。/まず、最高検による改ざん事件の捜査、調査結果を第三者が検証するのは当然です。検察以外のさらなる透明性向上も必要です。国民の知る権利が実質化し、「権利としての監視」の目が統治機構の隅々に注がれてこそ主権者として公権力を正しくコントロールできるのです。

 情報公開制度の充実に劣らず重要なのは、国民から信頼される、健全で強力なジャーナリズムの存在です。

 民主主義が定着し、国家、社会の運営に主権者の意思がきちんと反映するためには、権力を厳しくチェックし、判断材料を提供する自由な報道活動が必須です。

 「ジャーナリズムは第四権力」と言われることがあります。国民に対する四番目の権力という意味ではなく、三つの公権力から完全に独立し、国民のために三権と対峙(たいじ)する力という意味です。

 しかし、現状は時に権力追随と批判され、脱皮を迫られます。

◆“深層”に肉薄する勇気

 米連邦最高裁は「自由な言論に誤りはつきものである」として、報道が誤りを恐れ権力に対し萎縮(いしゅく)することを戒めました。正確性確保は当然として、深層に肉薄するジャーナリストの意欲と行動は安定した民主社会を築く礎です。

 十五日からの新聞週間を前に、反省、自戒を込めて使命の重さをかみしめています。(東京新聞「社説」・10/10/10)

(*アクトン(1834‐1902)=英国の歴史家。ナポリで軍人・政治家として活躍したサー・ジョン・アクトンの孫として同地で生まれ,ミュンヘン大学に学び,帰国してからは自由党所属の下院議員(1859年-1864年),1869年男爵に叙せられて貴族院に入った。自由主義的なローマ・カトリック教徒の代表的な存在として,教皇の不謬性を批判した。1895年ケンブリッジ大学の近代史欽定講座の教授に就任して《ケンブリッジ近代史》を企画・編集するなど,厳密な史料批判に基づくドイツ流の近代歴史学を英国に導入して英国の歴史学の発展に寄与した。(マイペディア)

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 権力は腐るといったアクトンの言葉が大流行です。それだけ、腐った権力(同語反復だ)が横行している証拠だとも言えます。腐臭(俗臭も)芬々ですな。大小を問わず、権力は腐敗するというが、間違いです。「権力」は腐らない。権力を握ったとおぼしき大小の人間が腐り、腐りきるんです。権力はおれだ、おれが権力だという軽薄な自己認識がそもそも間違いだけれど、その間違いに気づかいない輩がやたらに権力の付近に屯(たむろ)するという構図です。「この指とまれ!」という呼びかけが四方から聞こえてきそうです。

 大阪地検の問題は決してそれだけで終わらない、腐敗体質を持った検察庁全体の問題でもあることは先刻周知です。腐った検察を腐った政治が利用するのですが、腐敗菌は同類・同質だから、仲良くやりましょうという具合に事態はさらに腐敗菌まみれになって、自己崩壊を起こすのです。その権力を「批判」し、「報道する」のがマスコミだといいますが、どうですか。権力が権力を批判・非難するとどうなるか。大は小を飲み込むというのがお定まりです。呑み込まれたいと願っているのか?(巻き込まれたくはないですね)

 新聞(マスコミ)は第四の権力、この表現は正確ではない。マスコミも千差万別で「広報専門」の大新聞もあれば、「裏記事言一手販売」の業界新聞もあります。権力の列に連なりたい新聞はたくさんありますが、すべてが権力側には立てない。しかし、ぼくの狭い経験から言うと、報道(新聞・テレビなど)に携わる人間の大半は自分は「権力者らしい」、あるいは「権を持っている」というか、特権意識過剰であるのがほとんどだ。ぼくは今でもそんな感想を持ちます。その証拠かどうか、まず「何々のだれそれ」と自己紹介する。電話でも同じ。「どこそこのだれそれです」と。この程度の「権威主義」「特権意識」なら、なにもマスコミにかぎらない、世上「有名」「有力」「優秀」などと評判を受けている企業(これこそが怪しいんだが)に属する人間はほとんどそんな自己陶酔気分(悪酔い)にさせられているのではないでしょうか。そもそも、それが間違いの大本です。

 みんなボチボチでんな、という肩ひじ張らない姿勢(思想)こそが、最も人間の条件にふさわしいんとちゃいまっか。別に「何々週間」だから考えるのではなく、普段着の姿勢や態度で生きている中から生まれる「ちょぼちょぼ」主義ですね、大事なのは。(大阪地検は「赤木さん問題」(国賠訴訟)をどう展開するのか。森友問題もスルーしたし。なにか、起死回生があるんかいな)(この項、つづく。たぶん)

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