留保する自由を選んだのはだれ?

 私たちがいる所

 不戦の60年目は、また、この国の近代の運命を変えた日露戦争の終結から数えてちょうど100年目にあたりますが、100年前のそのおなじ年にでたのが、「清新体」の日本語による上田敏訳詩集『海潮音』でした。その『海潮音』に収められている、ロバート・ブラウニングの短い誌「春の朝」。

 「すべて世は事も無し」という一行には、日々の平凡さをたたえる、祈りにも似た思いが込められています。この国の歴史の光景のなかに「春の朝」を置いて読むと、平凡な日常の、平凡な真実をたたえているだけのように見える、この小さな詩の言葉が、実は、20世紀という戦争の世紀に対する留保の言葉として、あらためて、胸につよくのこることに気づきます。(長田弘「不戦支えた『留保の言葉』」)朝日新聞・05年1月13日)

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 20世紀は戦争の世紀であったというのは、この国の歴史事実としていえることです。「日清戦争」(1894年)から「太平洋戦争」(1945年)までの半世紀、この国は間断なく戦争をしてきました。その反動でしょうか、敗戦後から2020年までの75年間、たしかに主体的に「戦争」をしてはこなかったといえます。「戦争の半世紀」と「不戦の75年」が十分に釣り合うほどに、わたしたちは戦争の不条理を悟ってきたのかどうか。まるで「本卦(ほんけ)がえり」のように、この75年間をリセットし、もう一度戦争ができる国、武力行使を正々堂々と掲げる憲法を作ろうという時代錯誤のくぐもった声が響いています。(敵基地攻撃能力だってよ)

 「時は春、日は朝(あした)、朝(あした)は七時」という日常をわたしたちは忘れていないか。無視したり、目をそらせておろそかにしていないか。「片岡(かたおか)に露みちて、揚雲雀(あげひばり)なのりいで、蝸牛(かたつむり)枝に這ひ」そんな日常を棄ててしまってはいないか。なんだ、平凡な、という「平凡」こそがいちばん大切なんだと、ブラウニングは祈りをこめてうたったんですね。「すべて世は事も無し」と。

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 長田さんは、このあとに西脇順三郎の「花や毛虫」を引用されています。

 「人はなぜ花や毛虫を愛するのか」

 戦争が世界からうばったのは日々の喜びがそこにある平凡な日常の風景、そして、戦争のない平凡な日常の美しさこそ「人間の慰み」だとこの詩人は言われます。うなづくばかりです。わたくしのささやかな時間と空間。だれにも侵略されたくない生地であり、聖地。

 「戦争は、いまではおおくが、宣戦布告による国家間の、終わりをめざす戦いではなくなって、パニックによって激発する、終わりのない戦いになってしまっています」(同上)

 世界の警察を自負する国が仕掛けたいくつもの戦争をみれば、このことはわかります。だからこそ「我が帝国は今朝何々国と戦闘状態に入れり」と宣言する言葉、何々すべきという言葉ではなく、何をなすべきではないかをいいうる、留保する言葉をこそがいまためされているのだといわれるのです。これが詩人の勘所なのでしょか。

 戦争はすべきでないという言葉の力が支えてきた75年のあとに、わたしたちは「勇敢に戦うべし」というグロテスクな言葉を再び発することになるのでしょうか。

 「この国は自分から戦争をしないことを選んで、留保する自由を選びました。しかし、忘れないようにしたいのは、それからずっと、みずから留保する自由を選びつづけてきた最初の理由が、いまに至るまで、この国の自律の最後の根拠になってきたし、なっている、という事実です。」(同上)

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 長田弘さんは大学の先輩であり、長田さんの友人(ぼくの敬愛する兄貴分)からよく彼の話を伺いました。長田さんのたくさんの詩や評論は可能な限りで集めて、集中して読んだ記憶があります。人によっては、その「やさしさ」が曲者だという、厳しい見方をします。ぼくはそれを真っ向から否定できないという気もしますが、その「善意」もまた捨てがたいと考えたりします。甘すぎるんですね。誰が? どこかで長田弘論みたいなものが書ければいいが。

 長田さんが書かれた時点からも十五年たちました。「留保する自由」を選んだというのは当たっていたのか。「勇敢に戦うべし」という掛け声だけが喧しい(だから空しい)時代をぼくたちは迎えているのです。したがって「留保する自由」も、その時点までで命運が尽きたという思いが強くなります。本気頭(かしら)、中国や韓国、北朝鮮という向こう三軒と覇権を競うなんて。狂った季節だ。「鷽が飛び交っている」真夏の空は、今にも泣きだしそうです。

 コロナを制圧した、その証拠(証明)として「Tokyo 2020」をやるんだという空元気は、どこまでも空虚(嘘)だ。世界に誇れる、世界一位級の、いまだかつてない大型のと、最大級の自賛嘘をまき散らされて、庶民の上にも、いよいよ本格的な夏の到来です。東京都の鷽痴児のもと、ある職員は「八月のある日、東京の感染者は千名越え(「天城越え」じゃない)」、それを今から深刻に危惧(恐怖)しているといった。実はすでにもう、そういうレベルにあるということを明かしているようなもの。

 くれぐれも自粛専一。自分のいのちを他者にあずけてはならない。「私たちがいる所」はどこだ。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。