先生がみんなの生徒になって…

    日曜日記(丸山金三郎作)

  アサ
     ニハ ハキ
      カヤテノ クズカタツケ
      トリ ダシ
      ウサギニ モノクレル
      オモテ ハキ
  フルマ
      エビ スキ
      クリ ヒロイ
      アヅキ モギ
      センフリ トリ
    バン
     ママ タキ
     オツケ ニリ
     ニハ ハキ
     ミズ クミ
     オモテ ハキ
     トリヲ イレル
     ウサギニ モノクレル
     イモ ニリ
     エビ イリ
      フナ アブリ

 丸山金三郎は当時(昭和九年)、秋田県由利郡亀田小学校四年生だった。担当教師は田村修二さん(1906~97)。時に、修二先生は二十八歳だった。「日曜日記」というタイトルは後に付けられたそうです。

 その時代、カタカナ学習は小学校一年生からでした。四年生でありながらのカタカナ書きは、それだけ学習が遅れていた印でした。田村先生はいいます。(すでに「戦争」の惨禍はこの地にも及んでいました)

 「お客様であった彼が、彼をお客様のままにさせていた担任教師のTにむしろつきつけた一篇である」「TはそれまでMを見失っていた。彼の生活の実情と実態を見ようともしなかった。Mを見失っていただけではなく、教師であり担任である自分を見失っていた。その間に教育は行われる筈はなかった」

 ここにもまた、子どものしあわせを願い、心魂を傾けて子どもとつきあった教師がいました。

 もうひとつ、ふたつの「生活詩」を紹介します。いわゆる「北方教育」の物心両面におけるかけがえのないリーダーであった成田忠義さんの片腕ともなって「北方教育」を実践していた若い教師のひとりに加藤周四郎さん(1910~2001)がいました。このひとの仕事も忘れてはならない貴重なものだったとおもわれます。はじめて教師になったのは昭和四年、秋田県河辺郡上北手尋常高等小学校(現、秋田市立上北手小学校)のことで、当時彼は十八歳でした。この後すぐ、田村修二さんと出会うことになる。

 秋田市内で育った加藤さんが勤務したのはこれまで生活経験のまったくなかった農山村の子どもたちが通学する学校でした。言葉もわからず、子どもたちの生活もみえない。

 「彼等は別世界の子どもなのだろうか」言葉がとどかない毎日に加藤先生はほとほと困りました。困りぬいてたどり着いたのは「子どもたちに聞く」ということだった。

 「先生はなあ、百姓のくらしのこと何もしらないんだ。みんなが家でどんなこといって、どんな気持でくらしているかも何もわからないんだよ。だからきっと、加藤先生のしゃべることは、みんなの心の中へ入って行かないんだと思うんだ。そこでだ、今日は先生からみんなへのたのみごとがあるんだ。どんな紙ぺらでもいい、白い紙をみつけたら、鉛筆にタンパ(つば)をつけて濃く、みんなのいいたいことや先生ヘの注文や家の人たちのいってることを、何でも書いて教えてくれろ。今月は先生がみんなの生徒になって百姓勉強したいのだ。今日からみんなが先生で、私は生徒、いいかな、たのむよ」

 次の日からたくさんの紙切れが集まりました。しかし読めない字やなにが書いてあるのかさっぱりわからない内容ばかりでした。「ありのまま」「自分の言葉で書いてくれ」「自由に書くんだ」といった手前、かんたんにまちがいだと指摘することはできなかった。必死になって文字をたどり、他の教員にも教えられながら、子どもたちの「紙切れ」を読み込んだ。そのなかから、想像を絶する子どもたちの過酷な生活が現れてきたのです。

  太い鉛筆のあとから、ボソボソとたぐられる彼等の家庭生活は、およそ、学習だの、運動だの、思索だの一切の文化的な要素を忘れたかのような、はげしい労働だった。

 そのときに子どもたちが書いた文章は一枚も残っていない。なぜなら、提出された紙切れの一枚一枚に赤で書き入れをして子どもたちに返したからです。しかし、どの子の生活も「日曜日記」と変わらないものだったのです。

 加藤先生には、

    私はきのふ朝ごはんをたべてちとやすんで居ると、おばあさんがだいこんをはこんでゐました。私もおてつだいをしました。(中略)するとおひるになりましたのでごはんをたべてこんどは稲をしょいました。十三回しょいました。十三回しょいますとばんになりました。(二年 嵯峨栄治郎)

 「わたしの学級の四月の調査では、分数四則計算のできない子が四十八名中十八名、五十音のひらがなを正確に書けない子が十二名、九九を知らない子が五名でした」(加藤)

 「ほんとうの生活を見ろ、それが教育のスタートだ」これは加藤さんの肺腑の言だった。

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 ここにも「職業」(既述)で述べられた、学校教育を受け付けなかった子どもの生活苦があった。はるかな昔のある地方の一コマでしかないと見過ごすことは簡単です。だが、ぼくはこのようなか国極まる生活苦に襲われている子どもたちやその家族はいつの時代にもいたし、いるのだ、それを見ようとしないぼくたちの怠慢こそが問われなければならないと思い続けてきました。(何年も前に、ぼくは「北方教育の教師たち」の実践の跡(歴史)をたどるために秋田県のあちこちを歩きました。表面上は穏やかであったが、一皮むけば、過酷だった歴史の顔貌がいつでも覗けそうな気になった。この島の「近代化」は東北地方を踏み台にし、人民を犠牲にして成し遂げられようとしてきた。戦争への加担も、この地に重く求められたのでした。こんな現実に若い教師たちは、まさに悪戦苦闘し、その挙句に暴力(権力)によって、完膚なきまでに打倒されることになるのでした。(つづく)

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● 北方性教育運動 1929年秋田市に創立された北方教育社を拠点として,東北地方で展開された生活綴り方を中心とする教育運動。この運動に参加した教師たちは,生活綴り方を方法の中心に,窮迫した東北農村の生活現実に根ざす教育実践を展開した。 34年には東北地方を襲った大凶作を契機に北日本国語教育連盟を結成し,翌 35年『教育・北日本』を発刊,盛んな生活意欲と生きた生活知性をもった子供の育成を目指したが,第2次世界大戦時下の弾圧に屈した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)(左写真は成田忠久)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。