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▼選択肢を狭めるな(承前)(西日本新聞)
戦前の日本社会は、国際情勢が厳しさを増すにつれ、悠々が唱えたような「異論」を排除し、国論を強硬策で一本化していきました。悠々への圧力が不買運動だったように、言論統制は権力と一般国民との共同作業でした。
そもそも、どうして社会には「異論」が必要なのでしょうか。
国や社会が、経験則で対応できない新たな事態に直面したときには、できるだけ多くの選択肢をテーブルに並べ、議論と熟慮のうえで、間違いのない道を選ばなければなりません。

←東京新聞(2019/09/21)
冷戦終結後、大国になった中国と向き合う日本外交は、未知の時代に入っています。こんなとき、政府と違う意見を最初から除外していたら、選択肢を狭めてしまいます。国論を統一しないと不利、と考える人もいるでしょうが、得てして一枚岩は危ういのです。
長野を去った悠々は、個人誌で軍批判を続け、太平洋戦争開始の3カ月前に亡くなりました。その3年半後、東京は大空襲を受け、悠々が予言した通り、無残な焦土と化しました。悠々の社説は「正論」だったのです。
信濃毎日新聞には、悠々が使っていたとされる古い机が残っています。同社を訪れ、その机に触れたとき、悠々が残した句を思い起こしました。
「蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜」
暴風がコオロギの声をかき消す-そんな世の中にはしたくないものです。(西日本新聞 2013/08/01 )
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「 将来若し敵機を、帝都の空に迎えて、撃つようなことがあったならば、それこそ人心阻喪の結果、我は或は、敵に対して和を求むるべく余儀なくされないだろうか。何ぜなら、此時に当り我機の総動員によって、敵機を迎え撃っても、一切の敵機を射落すこと能わず、その中の二、三のものは、自然に、我機の攻撃を免れて、帝都の上空に来り、爆弾を投下するだろうからである。そしてこの討ち漏らされた敵機の爆弾投下こそは、木造家屋の多い東京市をして、一挙に、焼土たらしめるだろうからである。如何に冷静なれ、沈着なれと言い聞かせても、また平生如何に訓練されていても、まさかの時には、恐怖の本能は如何ともすること能わず、逃げ惑う市民の狼狽目に見るが如く、投下された爆弾が火災を起す以外に、各所に火を失し、そこに阿鼻叫喚の一大修羅場を演じ、関東地方大震災当時と同様の惨状を呈するだろうとも、想像されるからである。しかも、こうした空撃は幾たびも繰返えされる可能性がある」
「こうした作戦計画の下に行われるべき防空演習でなければ、如何にそれが大規模のものであり、また如何に屡それが行われても、実戦には、何等の役にも立たないだろう。帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショーに過ぎない。特にそれが夜襲であるならば、消灯しこれに備うるが如きは、却って、人をして狼狽せしむるのみである。科学の進歩は、これを滑稽化せねばやまないだろう。何ぜなら、今日の科学は、機の翔空速度と風向と風速とを計算し、如何なる方向に向って出発すれば、幾時間にして、如何なる緯度の上空に達し得るかを精知し得るが故に、ロボットがこれを操縦していても、予定の空点に於て寧ろ精確に爆弾を投下し得るだろうからである。この場合、徒らに消灯して、却って市民の狼狽を増大するが如きは、滑稽でなくて何であろう」(「関東防空大演習を嗤う」「信濃毎日新聞」1933(昭和8)年8月11日)
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「関東防空大演習を嗤う」は陸軍の怒りを買う。当時の信州郷軍同志会は信濃毎日新聞の不買運動を敢行し、悠々は退社を余儀なくされたのでした。「嗤う」べき軍の姦計でしたが、泣く子と地頭の類です。悠々の不敵な抵抗の精神を大いに評価するのがたいていですが、その悠々にして、完膚なきまでに負けたのです。軍の暴走を止めることはおろか、「言わねばならぬ事」すらいえなくなったという事実を、ぼくたちは忘れてはならない。現下の「平時」における新聞人を筆頭とする(しなくてもいいが)言論界のていたらくは目を覆うばかりです。「言いたいこと」さえ言えないところに、自らが退避しているのです。権力に阿(おもねる)るというのはこのことです。「阿世」という、嫌な風潮は今も勢いは衰えていないのです。「世」が権力で、それと一体化しておのれもその一端に連なるという下卑た根性であるとは信じたくないが、「言いたい事」も「言わねばならない事」も筆先にまず乗らない、この惨状を如何にする。

今から見れば、悠々の論は荒唐無稽でもなければ権力(「陸軍」)を逆なでするような毒は含んでいなかったと、ぼくは考える。きわめて当たり前の状況認識を述べたが、それが「さる筋」の忌諱に触れた。要するにお追従をしなかっただけでした。提灯を掲げなかったからです。揶揄でも嘲笑でもなく、おべんちゃらを言わなかった(それが「言わねばならぬ事」だった)、それがために悠々は追放された。彼の不幸は、彼につづく言論人が出現しなかったという事実です。戦後、朝日新聞の緒方竹虎は「新聞人が連携していたら、戦争は止められた」と述懐しています。ほんとうにそうだったかどうかはわかりませんが、連携・連帯しなかったことは確かです。追従に忙しかったからでしょう。「抜け駆けの功名」や「権力への距離の近さ」を競うような「ジャーナリズム」は百害あって一利なしです。
今に至るも「大本営発表」はいたるところで見られます。社名を見なければ(局名を伏せれば)、内容は同工異曲どころか、ほぼ同一です。翼賛報道陣の現代の姿を見るようです。悍(おぞ)ましい。ぼくはこれまでもずっと、国会には「与野党」などない、すべて(ごく一部を除いて)は与党(補完勢力)だといってきましたし、今もそれは変わりません。報道界もまた全員与党派(気取り)ですね。人は言論の自由をあげつらうが、それがなんであるか、確かな手ごたえ(圧力)に遭遇して初めて実感するものです。端から、それを避けるとは由々しい事態です。
「言いたい事と、言わねばならない事とは厳に区別すべきである」
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