義務の履行は、犠牲を伴う

【社説】桐生悠々の社説から80年 コオロギの声に耳を澄ませば

   ■月のはじめに考える■

 社会が大きく変化するときは、しばしばその前兆となるような事件が起きるものです。今から80年前、長野県で起きた出来事も、その後の日本の行く末を暗示するものでした。

 1933(昭和8)年8月11日、長野県で発行する信濃毎日新聞に「関東防空大演習を嗤(わら)う」と題する社説が掲載されました。書いたのは主筆の桐生悠々(ゆうゆう)(1873~1941)です。

 その2日前から陸軍は首都圏への空襲を想定した大規模な防空演習を、市民も参加させて実施していました。悠々はこの演習を「かかる架空的なる演習を行っても、実際にはさほど役に立たないだろう」と批判したのです。/ 悠々はこの社説で「敵機の爆弾投下は、木造家屋の多い東京を一挙に焦土にする」と予想し、「敵機を東京の空に迎え撃つことが敗北そのものだ」と断じて、むしろ制空権の保持に全力を尽くすよう訴えています。/ 「嗤う」という見出しは確かに挑発的ですが、よく読めば感情的な批判ではなく、軍事の常識や航空科学を踏まえた論理的な指摘だと分かります。

 しかし、軍はこの社説に怒りました。そして、その意を受けた在郷軍人組織の信州郷軍同志会が、信濃毎日新聞に悠々の解任と謝罪を求め、不買運動を叫んで圧力をかけます。

 当時の同紙の社長らは懐の深い人物でしたが、経営を揺るがしかねない圧力に困窮します。信州郷軍同志会の会員数は、同紙の発行部数を大きく上回る大勢力だったのです。悠々は結局、会社と社長に迷惑をかけるのを避けるため、社を辞めることになります。/ 悠々は現在では、福岡日日新聞(西日本新聞の前身)の主筆だった菊竹六皷(ろっこ)とともに、反軍部の論陣を張った気骨の新聞人とうたわれています。

 しかし、悠々と信濃毎日新聞の敗北に終わったこの事件は、日本が言論統制を強め、無謀な戦争へと突き進む転機の一つだったように思えます。

 ▼異論をたたく風潮

 悠々のことが気になるのは、最近のわが国で外交や防衛をめぐる議論の風潮に、当時を連想させるような息苦しさを感じるからです。/ 現在、日本はロシア、韓国、中国との間で、領有権に関わる問題を抱えています。北朝鮮の核開発や中国の軍備増強もあって、日本と周辺国とのあつれきは強まっています。

 そうした中で、特に領土や歴史に絡む議論では、日本の立場や権益を絶対視する発言が勢いを増し、それに異論を唱えれば四方から攻撃される-そんな雰囲気ができつつあります。

 相手国の立場を少しでも理解するような姿勢を示そうものなら、「国益」を盾に批判され、「売国奴」など乱暴な言葉を浴びせられることさえあります。冷静な議論とは程遠い態度です。

 例えば、沖縄県・尖閣諸島をめぐる議論について見てみましょう。

 政府の見解は「尖閣は歴史的にも国際法上も日本固有の領土。中国との間に領有権問題は存在しない」です。/ しかし、丹羽宇一郎前駐中国大使は、両国が危機管理の話し合いの場を持つため「外交上の係争はあると認めるべきだ」と主張しています。/ また、日中国交正常化を成し遂げた田中角栄元首相の薫陶を受けた野中広務元官房長官は「国交正常化の時に、領有権棚上げの合意があったと聞いている」と発言しました。

 2人とも、厳しいバッシングにさらされています。確かに、両国の主張の違いと対立が拡大した現段階では、外交上そのまま採用することは難しい「異論」でしょう。でも、衝突の回避を最優先する2人の意見が、全く聞く価値のない「暴論」とは思えません。(以下略)(西日本新聞 2013/08/01)

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 私は言いたいことを言っているのではない。言わねばならないことを言っているのだ。国民として、特に非常時に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならないことを言っているのだ。言いたいことを出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが言わねばならないことを言うのは愉快ではなくて、苦痛である。なぜなら、言いたいことを言うのは権利の行使であるに反して、言わねばならないことをいうのは義務の履行だからである。(中略)しかも、この義務の履行は、多くの場合、犠牲を伴う。少くとも、損害を招く。現に私は防空演習について言わねばならないことを言って、軍部のために、私の生活権を奪われた。私はまた、往年新愛知新聞に拠って、いうところの檜山事件に関して、言わねばならないことを言ったために、司法当局から幾度となく起訴されて、体刑をまで論告された。これは決して愉快ではなくて、苦痛だ。少くとも不快だった。(以下略)(悠々「言いたい事と言わねばならない事と」(昭和十一年六月)『畜生道の地球』所収)

● 桐悠々=1873-1941 明治-昭和時代前期のジャーナリスト。明治6年5月20日生まれ。43年「信濃(しなの)毎日新聞」主筆。大正元年乃木希典(のぎ-まれすけ)の殉死を批判して論議をよび,退社。昭和3年復職。8年社説「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」で軍の圧力をうけ再退社。以後,雑誌「他山の石」を発行して軍部批判をつづけた。昭和16年9月10日死去。69歳。石川県出身。東京帝大卒。本名は政次。
【格言など】小生が理想したる戦後の一大軍粛を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に御座候(「他山の石」廃刊の挨拶)(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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 西日本新聞の「社説」が書かれてから、すでに七年が経過しました。この間、つねに「ジャーナリズム」の劣化や権力への忖度がしきりに言われてきました。その通りだと、ぼくも思います。なぜそうなったか、それついても明確な理由があるはずです。多くの人はそれを知っていて、余計なことを言わない。「言いたい事と言わねばならない事と」の区別がつかないのです。そして、「言いたい事を言う(書く)」のが記者の務めだと錯覚している次第です。それだけです。一端の記者だという自覚や充足感があるのかどうか、当事者じゃないから、ぼくにはわかりません。「言いたい事」といっても、何でもかんでも書けばいいというものではない。要するに書いていい記事はだれかが決めているのか、というです。その筋の判断に従って書くと、結局は今あるようなふしだらな、うじゃじゃけた新聞や放送になるに違いない。権力者と酒を飲む、あろうことかマージャン卓を囲む、政治資金集め集会に勇んで出かける、それで何が悪いという開き直りはあっても、「羞恥心」のかけらもないのだというように、ぼくには想像できてしまうのです。。

 ここに悠々の名を出すのも、場違いな(もったいない)気がして、身が引けているのです。悠々を担ぎ出して、まさか「他山の石」とせよ、とでもいうのじゃなかろうな。指摘を受ける前に、ぼくにだってそんなことはわかりきっています。多くの記者諸君がいかなる環境で「成長」してきたか、まんざら知らぬわけでもありません。学校教育の実際がどの程度であるかも、葦の髄から(管見)ですが、覗いたこともあります。それをして言わしめれば、「ジャーナリズム」の退廃は救い難かろうというほかありません。「権利の行使」はできても「義務の履行」は苦痛だという悠々の肺腑の言が泣いている。「権力を批判する」のではなく「にじり寄る」という芸当だけが達者なんですね。もう手に負えません。社主だか社長らが率先してそうなんだから、なにをかいわんやでっせ。 

 ならば、どうするか。(この項、つづく)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです