こちらが責任を持つ、という無責任

 学校はだれのものなんだろうか

 いったい、学校はだれのものでしょうか。子どもを教育するところ、いや教師の職場である、とんでもない、国家が発展するために作られた制度だと議論は沸騰するのかも知れません。じつに奇妙な話です。学校教育が始められてから一三〇年以上も経過していながら、いまだにこのような疑問がときとして大まじめに出されるのです。

 考えてみれば、こんな疑問は不思議でもなんでもないのかもしれません。だれかのものと決めつけようとすることこそが奇妙だといえます。ひとそれぞれに、自分の立場にたって、学校教育を論じようとするのですから、だれもが納得する結論がでることはないといってみたらどうでしょうか。ようするに、どのような視点から学校を見る(論じる)かが重要だといってみたくなります。

 子どもの成長や発達を願う立場からみれば、学校は子ども(その関わりでいうなら、親たち)のためのものだといえます。教師がいてこそ、子どもの成長や発達に資する教育が可能となる(そのように懇望してやまない)というなら、それは教師がいなければなりたたない組織であると考えられましょう。しかし、子どもの成長を可能にする教師の役割を容認するにしても、けっして個々人の努力や情熱だけでは一日だって維持できないのはいうまでもありません。それがじゅぶんに達成されるためには莫大な経費や施設・設備が欠かせないのです。

 ここまできて、学校はけっしてだれだれのものと、所有者を特定できないことがわかります。そんなことはあたりまえだといわれそうですが、この国における学校教育がつねに問題をかかえており、ときには驚くばかりの愚劣な議論が政治の領域でなされるのをみるにつけ、学校は「俺のものだ」という我が物顔の主義主張がまかり通ってきたともいえるのです。

 教育の政治的中立性とはどういうことか。いかなる党派であれ、ある種の政治権力が学校教育を、どのような方法を使おうとも、支配することをいさぎよしとしない、民主主義社会のためのひとつの原理を示すものだと考えられます。国家権力であれ、一人ひとりの教師のそれであれ、はたまた子どもや親たちの意向であれ、それらが学校教育をかたよった方向に導かないためにはこの原理をないがしろにしてはならないことを教えています。

 ではなぜ、このような原理が大きな価値をもつのか、もたされているのか。いうまでもなく、特定の権力(勢力や党派といってもいい)が学校教育を牛耳り、そのあり方をきわめていびつなかたちにゆがめてしまうことがあったからです。その具体例はあげるまでもないでしょう。学校教育をみずからの思想や教義のための道具とした事例は枚挙にいとまなしです。明治以降の学校教育史とは、一面ではまさしく学校・教育が政争の具とされてきた歴史でもあったし、その流れは今日においてもまったく変わりません。

 時には、「学校はおれのもの」だという、驚くべき錯誤を信じて疑わない虚仮がいるのだから、油断も隙もあったものではないのです。どこを叩けば、かかる頓馬が飛び出してくるのかしら。誰のものでもない、みんなのものだという「公共」という概念すらもたないから意識もないのか。考えてみれば、恐ろしいことです、こんな輩が宰相だというのですから。何かと心配する文科大臣(虚仮の子分だとされます)を前にして、「こちらが責任を持つ」といったそうです。「責任」という言葉を使えば、「責任」を果たしたことになると心底思いこんでいるんですね。驚愕すべき頽廃のきわみ、薬石効なしですな。(「責任」=責任という語を用いること、という奇怪な辞書があるらしい、非売品だ)

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 世間の批判をかわすために、「学校一斉休校」を宣言するというとんでもない暴挙を行ったのは、まさしく、学校・教育の政治的利用の最たるものです。子どもの教育や親の事情など一切関係なく、おのれの評判(支持率)を死守するためだけに、こんなに愚かなことができるというのも前代未聞でしょう。これは才能のなせる業なんですか。

 いともかんたんに、かかる蛮行を許してしまうという現行の教育行政の体たらくをぼくは糾弾したい。これまで営々と築いてきたものがまったく砂上の楼閣ならぬ、張りぼてだったということが白日の下にさらされた瞬間でした。誰一人抵抗するものもなく、てもなく響宇高に追い込まれ、果ては休校先陣争いのごとき惨状を呈していました。二度と再び、口先だけの政治屋に翻弄されないだけの矜持を持たなければ、話になんないね。 

 マスクを数百億円使って、求めてもいない人民に配布するという破天荒の愚策をやった人間を長い間支持してきた島社会です。数え上げればきりがない野放図なバカさ加減を提灯持ちよろしく「よいしょ」してきたのは誰だったか、と問えば、天から唾が落ちてきます。まだ懲りずに「go toキャンペーン」だってさ。コロナ禍にやられたのかしら。今や都心は「エピセンター」になっているというのに、です。人民の死は、災害であれ、なんであれ、すこしも構うものか、という「悪辣非道」の万世一系かとも思ったりします。それに抵抗したい。抵抗しなければ。

 「一斉休校」、それはまさしく能天気なPMの「スクールジャック」でした。いったい学校はだれものもか、という問い自体が意味をなさないくらいに、落ちるところまで落ちたのです。ぼくは「教育は私事である」と思って、これまで生きてきた人間です。「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」といった犠牲礼賛、滅私奉公奨励、皇室尊崇を強いる学校教育は破棄されたのではなかったか。この期に及んで、まだそんな寝言をお前は言ってるのか、と嘲笑されるのが落ち、そんな時代にぼくは生きている。歴史が明治と陸続きであることは否定できないが、心機一転、気分一新、生まれ変わろうとする志(再生への意欲)はとっくに失われたのか、端からなかったのか。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと 下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです