教師の仕事はどこで終わるのか

「綴方生活」は小砂丘忠義さんの編集で出版されていました。この目次に名前のある教師たちは、綴方教師としてそれぞれが大きな足跡を残されました。

 《 父親がろくに働けない生活をしながら高等科まで進めたのは、サキ自身の言ふ通り〈幸福〉だつたのに違ひなく、それだけ卒業したあと家計を扶ける義務が、サキには重たく感じられたのであらう。だが同時に、サキは〈職業〉に夢を賭けてもゐるのだ、と鈴木は思つた。裁縫を習ひたい、交換手になりたい、産婆の学校へ行きたい、と言ふとき、サキは何か一つ技術を身に付けて、現在の境遇から脱出しようと願つたのではなかつたらうか。「百姓は性質に適してゐない」「百姓は嫌ひだ」としつこいくらゐに書くのも、百姓になれば現在と同じ生活がずつと続くばかりだといふ懼(おそ)れの反映であり、それと対照に、〈職業婦人〉の未来が美しく見えてゐるのに違ひなかつた 》(高井)

 鈴木正之は仲間の教師たちにサキの「綴方」を突きだした。

 「昂(こう)さん、どう思ふ」と問われた佐々木昂はすぐには答えられなかった。この綴方はまさに自分が目指すリアリズムに徹した優れたものであることを彼は疑いませんでした。「だが、それは称賛するだけで終つてしまつていいやうな性格のものではないのは確実であった」

 「この娘(わらし)なば、悩んでゐる」

 「今まで俺たちがやつて来たみたいに、この文章の、どこがいいの、どこが悪いのと、突ついてみたとて、片が付かないのでねえか」

 「銭がかからなくて、私に適した職業で、家の手助けのできる職業」と、鈴木正之はサキの文章の一節を諳んじていました。

 「これなば、サキの言ふ通り、夢のやうな事だ。虫のいい望みだと言つたつていいかも知れねえ。だども、そいつを親身になつて考へてやる、サキの望みにどれだけかでも近い職業を探し出してやる、それが出来ねえば、なんぼ立派な事を言つたとて、サキに生き方を教へてやれねえのでねえか」

 正之はそのように言いました。

 佐々木昂は「俺たちの手で、この娘(わらし)さ、職業を見付けてやらなくてはなんね」

  「俺たちが、サキの生活さまで入って行かなくてはな」とくりかえすのでした。

 それをじっと聞いていた若い教師が言った。「昂さんの言ふ事は判るす」「判るども、それは学校の教師の仕事からは、はみ出した事でないすか。教師が、生徒一人ひとりの生活の責任まで負へるものだかどうか、俺なば疑問あるす」

 昂は若い教師に向かって言葉を返した。

 「教師はそこまでやるものでねえ。普通の場合にはな。だども、その教師の役割からはみ出した所で問題が起こつたとき、俺の知つた事でねえと外を向いたら、子供(わらし)ら、どう思ふべ。先生なば、それまで嘘こいてゐたと思ふでねえか」

 学校内で、あるいは教室のなかだけで「教育」は終わるのか。終わらせてもいいのか。教師の仕事は「教室で教える」ことにつきるのかどうか。これはけっして七十年以上も前の田舎教師たちだけの問題ではないように思われてきます。

 生きるためにもがき、生活を切り開くために救いを求める子どもたちを前にして、傍観者のように振る舞う教師とは何者だろう。いかにも無慈悲な官僚か、さもなければ、教育にも生活にも興味をもたない鉄面皮だといわなければならない。表面上のちがいはあるにせよ、いつの時代にも生きることに苦労しない子どもたちはいない。時代や社会が変わっても、そのような子どもたちの側に立ちつくす人間こそが教師であり、そのような仕事を教職というのではないか。ここに集まった教師たちは、そのような思いで身につまされていたのです。

 「正之の指導のおかげで、これだけの激しい訴へが、子供(わらし)から生れた。それをきちんと現実に即して受け止めてやれなければ、綴方の指導そのものが、虚しい事になりはしないか。教師の役割を外れたやうに見えるところに、実は教育の本質があると言へるんでないのか」

 いつ終わるとも知れない議論が延々と続いて、「男鹿(おが)さ知つた家がある」という成田忠久の一言で一応のけりがついたのは夜の八時でした。厳冬の二月のことだった。遅い汽車に間に合うように凍りついた夜道を歩きながら佐々木昂はずっと考えあぐねていた。(つづく)

********************************

 この時期(昭和初頭)、学校の教科書はほとんどが「国定教科書」を使うことが求められていたし、その教授法もまた、教科書の内容を過不足なく教授するのが教師の仕事でした。唯一、「綴り方」だけが教科書のない教科だったのです。教師たちは、ここにおいて、自らの仕事に懸けるように使命を見出していたのでした。後年に「綴方教育」と称されるようになった教育方法はこの頃から一斉に各地で展開されるようになりました。すでにわずかばかり述べた土佐の教育実践もまた、上田さんや笹岡さんたちに導かれた教育運動でもあったのです。

「教師の役割を外れたやうに見えるところに、実は教育の本質があると言へるんでないのか」、教室(学校)内で教師の仕事は完結するのか。苦悩にあえいでいる親や子どもを前にして、いったい教師にできることは何だろうか、これはいつの時代にも眼前に立ちはだかる教師の宿命ともいえる課題です。

+++++++++++

● 高等小学校=〘名〙尋常小学校の課程を修了したものを入学させて、さらに高度な初等普通教育を施すことを目的とした学校。明治一九年(一八八六)の小学校令によって設置。修業年限は四年だったが、同四〇年、小学校令の改正によって二年となり、場合により三年のものも認められた。多くは、尋常小学校に併設され尋常高等小学校と称した。昭和二二年(一九四七)廃止され、新制の中学校に代わる。高等小学。高等。高小。精選版 日本国語大辞典の解説

_________________________

 誤りのない選手交代はできるか

 英ブリストルで、奴隷貿易商人エドワード・コルストンの像があった台座に置かれた黒人女性ジェン・リードさんの像。英国人アーティストのマーク・クイン氏制作(2020年7月15日撮影)。(c)GEOFF CADDICK / AFP)
【7月16日 AFP】英国南西部ブリストル(Bristol)で15日、人種差別に反対するデモ隊によって先月引き倒された奴隷貿易商人像の台座に、当時のデモに参加していた黒人女性の像が市当局の許可なく設置された。/ この像は英国人アーティストのマーク・クイン(Marc Quinn)氏が、「黒人の命切(Black Lives Matter)」運動参加者のジェン・リード(Jen Reid)さんをモデルに制作したもので、拳を突き上げるポーズをとり、「力の高まり(A Surge of Power)」と名付けられた。
 
  台座に立っていた奴隷貿易商エドワード・コルストン(Edward Colston)の像は、米国で黒人のジョージ・フロイド(George Floyd)さんが死亡した事件を受けて先月行われたデモで引き倒され、ブリストル湾(Bristol Harbour)に投げ込まれた。/ 同市のマービン・リース(Marvin Rees)市長は、リードさんの像は市当局の許可を受けずに設置されたとした上で、「台座の将来と、台座に何を置くかはブリストル市民によって決められなければならない」と述べている。(c)AFP

_________________________________

● エドワード・コルストン(英語: Edward Colston, 1636年11月2日 – 1721年10月11日)はイギリスの商人、トーリー党の国会議員、篤志家、奴隷取引家である。1340年代からブリストルに住む商人の家系に生まれ、長じてから自身も商人となり、当初はスペイン、ポルトガル、その他のヨーロッパの港を中心に、ワイン、果物、布などの貿易を行った。1680年には、イギリスのアフリカ奴隷貿易を独占していた王立アフリカ会社に加入したことで、奴隷貿易に大きく関与するようになった。彼は1689年に会社の最高職である副総督に就任した。彼の資産のうちどの程度が奴隷貿易に由来していたのか正確な所は不明であるが、彼が奴隷貿易に関与して財を成したことは事実である。

 コルストンは奴隷貿易で得た資産を元手に、ブリストル、ロンドン、その他の場所で学校、病院、救貧院、教会を支援し、寄付した。彼の名前は、ブリストルのいくつかのランドマーク、通り、3つの学校、そしてコルストン・バンズ(英語版)によって記念されている。1895年には彼の像が建立されたが、20世紀後半に彼が大西洋奴隷貿易に関与していた事が認識される様になるとランドマークの名称変更を求める抗議や嘆願が続き、2020年6月、彼の像が倒されブリストル湾に投棄された事で最高潮に達した。彼が設立した慈善財団に触発されて設立された財団は現在でも存続している。(wikipedia)

++++++++++++++++++++++++++++++++

 このニュースを聞いたり見たりして、歴史は「塗り変えられる」という事実を目の当たりにしたという思いが強くなりました。「選手交代」を告げるのは「監督」が相場でしたが、この時代、それは人民であり民衆であるということでしょうか。アメリカでも事態は急速に進んでいます。さらに時代が転回して、もっと過激な「差別主義者」や「毒宰者」が登場すれば、どんな「選手交代」が行われるのか。願わくば、毒災者などが再登場しないように。そのためには「選挙民」が賢くなければなりませんが、大毒や中毒しかいないときには、「よりましな」「悪がより少ない」と思われるものを選ぶほかありませんし、急いで賢い人を探すことでしょうか。

 こんなこと言えば、お前の島でも、海にでも土中にでも捨ててしまえといいたくなる「銅像」や「石碑」がいたるところにあるじゃないか、と言われそうです。確かにその通りで、考えなしに「目立つ人物」「郷土の偉人」を祭り上げ、顕彰するという悪癖がこの島には根付いています。あろうことか、神話に登場するものまで「実在した」かのようにして登場させています。虚実相塗れているのがぼくたちの社会の歴史なら、可能なかぎり「虚」の部分を減らしていきたいし、そのためにはまず隗より始めよ、ですね。

 ぼくの居住地の周囲(3キロ範囲)に、なんと「天照大神」をまつる社が少なくとも十社あります。(伊勢神宮ほど大げさではありませんが)。神話の里か、空想の郷か。(ぼくが小学生の頃の「修学旅行」は「お伊勢さん」でしたね)神話を神話として認識するのは大切です。迷信をまっとうな信仰(というのも変ですが)(害が他者に及ばない範囲で「まっとうな」といっておきます)と散り違えているから事故や事件が起こるのですから。迷信を迷信とと見分けるのは、そんなに簡単な事柄ではありませんが。「鰯の頭も信心から」という俗信が幼少のころまで、ぼくたちの生活にはっきりと存在ていました。

**************************************