北方教育、貧困と闘った教師たち

 職業

父「サキ、何職業さつく気だ。」

私「ドゝ(父)さ聞いだどもだまつてんもの。俺だて分らなくて農業つて書いだ。」

父「農業でもする気か。」

私「…」

 この頃先生が自分の職業を書く紙をよこした時、どの職業につけばよいやら分らなかつたので、「自分の望む職業」と書いてある所へは「農業」と書き、将来希望する職業」へは「裁縫」と書いてやつたのであつた。

 けれども父はもう五十になつた。酒によふたときは元気でも、めつきり顔のしわがふえて手の筋が目立つた。母は耳が遠い上に、尚この頃は眼が悪くなつて困つている程であつた。

 私の下の弟は未だ十三だから少なくとももう六年も父は働かなければならない。だが五十にもなつた父がどうして体が長く続くだらう。

 今だつて寒い日や雪の降る日は「俺は仕事することが出来ない。」といふのであつた。又余り寒い日など体をこごえらせてくると

 「俺の体はとても続かない。あしたから仕事を止める。五十もなつて土方してんなは、赤石の人と俺とたつた二人だ。んがだ(私達のこと)かて(糧)(のために)俺はかうして仕事さねまねなだぞ。俺はまるで、んがだかて使はれてゐるなだ。俺は何の因果でかう働かねばならねだ。」

といふのです。かういふ父がもう六年も労働を続けることが出来るだらうか。いや出来ないのがあたりまへなのだ。

 さうなつたら私の家は亡びるより他にないのだ。父が十七年かゝつて作つた土地も、家も、皆人手に渡らなければならない。これ等は皆父と母の結晶だ。父の苦しんでゐるのを見てゐて、どうして私は農業の手助けをしてゐることが出来よう。私には又農業が性質に適してゐない。

 私はやはり職業婦人となつて家に少しでも手助けをしなければならない。私はぐづぐづしてなどゐられないのだ。

 少くとも一労働者の子としてとして生れた私は、外の家に生れたならば高等科にも入ることが出来ないであらう。是等は少しでも私の幸福といふものだらうと、人々の上級学校へ行くのをうらやましいと思ひながら、半ばあきらめてゐた。

 私はやはり職業婦人になるのが一番よいのだ。遂に決心して「交換手にでもなつて、休みだ日は徳さんの家さ行つて裁縫でも習ふと思つたども。」と言つた。(高井有一『真実の学校』より) 

(「職業」をめぐる、この親子の話し合いは延々とつづいた)

 この綴方を同人の前に突きだしたのは鈴木正之でした。当時、彼は秋田県由利郡金浦(このうら)町の小学校に赴任していました。金浦は漁師町、ここの子どもたちはまるで大人と同じように小さなからだをはった労働にかり出され、昼夜の別ない仕事に追われていた。ある子どもは午前二時には小型底引動力船に乗り込む船員の家を廻って出漁をつげて歩く。岸壁にかけつけ桶に汲んだ飲料水や漁具、漁箱を船に積み込む。前日使った漁具の手入れ、魚をいれるカン集めなど。伝馬船を漕いで帰港する漁船を迎えに港口までいくと、もう日が暮れている。それから…。家に帰り着くのは夜半過ぎ。海があれないかぎり、毎日のようにこんな苛酷な労働がつづくのです。

 生活苦と闘う子どもたちが学校(勉強)から離れていくことはとめようがない、そんな現実に、教師たちはなすすべを持たなかった。「彼等の生活が、学校教育を受付けなかつたのである」(高井)

 佐藤サキは鈴木正之の担任ではなかった。綴方の苦手な学級担任に頼まれて週に二回の授業を受け持っていたのです。「生活というものはかならず変えられる。だから貧乏に挫けるな」と彼は教室で言いつづけていた。そこに出てきたのがサキの綴方だった。正之は自分のことばに責任を感じていた。サキの将来をどうするか、なんとしても道を開いてやりたかった。だが、その道はまったく見えなかった。思いあまった正之は作品研究会に集う同人(仲間)に一切を投げ出してみようと決心した。

 教師の仕事とはなんだろう。読み書きや計算ができるように子どもたちを導く。もちろんそれは当然のことだ。しかし、大人に混じって朝の二時から夜中まで働きつづける五年生に「学校教育」はどんな意味をもち、学校教師になにができるのだろうか。これはけっしてその子どもたちの家庭の貧困だけの問題ではないはずです。「彼や彼女の生活が、学校生活を受けつけなかった」という現実に対して、教師たちは手をこまねいているだけでいいのか。

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【解説】明治以降に始まった日本の学校教育のなかで、いまでは「国語」科といわれる教科の一領域に綴方(つづりかた)と呼び習わされた分野がありました。今では「作文」と称されるものです。この文章に記された話は実際にあった出来事です。

 今から八〇年以上も前(昭和一〇年前後)の東北地方で「綴方」教育を通じて、子どもたちの生活力を育てるために懸命に教職に打ち込んだ教師たちが何十人もいました。その中心になっていたのが成田忠久(右写真→)で、彼の周りにはたくさんの若い教師たちがいました。佐々木昂(こう)、鈴木政之(まさゆき)もその仲間でした。貧困にうちひしがれている子どもたちと真剣に交わり、子ども自身がみずからの生活(貧困)をとらえなおすために、教職に身命を賭(と)していたといっていいでしょう。

 同人(仲間)たちが月に何度か集まりを持ち、それぞれの教室から生みだされた「綴方」をめぐってその批評をするのがつねでしたが、あるときに鈴木政之が持ち込んだ、ひとりの生徒(高等小学校・現在の中学校二年生)の綴方が同人の間に大きな波紋を引き起したのです。(つづく)

〇参考・引用文献 高井有一著『真実の学校』新潮社刊、一九八〇年)

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 まるで「悪夢」のような学校教育史の一コマです。たかだか八十年余の過去、劣島の北方(秋田・青森・宮城・福島・岩手・山形など)といわれる地域に、ぼくたちの想像を絶した、若い教師たちの格闘があった。相手は「子どもたちの救いがたい貧困」だった。いまなら、「生活保護」だ「児童手当」だなどどいうネットがあるといいますが、貧困とそこから生み出される「困難な人生」は、今も昔もまったく変わっていない「過酷そのもの」なのだと、ぼくは言いたいのです。

 ここで「生活綴り方」や「北方教育」などと言おうものなら、まるで河島英五(時代おくれ)だぜ、と非難されそうです。学校教育もいまではずいぶんとハイカラ(上品?)な顔つきをしていますが、はたして「時代遅れ」だなどと揶揄していいのか。表面は新奇をてらってはいるが、その内容は驚くほど浅薄じゃないかという声がしてきます。

 「彼や彼女の生活が、学校生活を受けつけなかった」、それほどに「貧困」は、戦うには困難を極める相手であったし、必ず教師たちは敗北に打ち負かされるほどの強敵であった。教師仲間から自死するものや、権力に扼殺されるもの、長期にわたって拘禁されるものたちが続出したのです。教師の仕事はなんであるか、疑うべくもない自明の理に翻弄された教師たちの闘いの跡をたどり、今につながる学校教育の、もう一つの歴史を手探りで実感してみたいのです。「死屍累々」とは、この教師たちの闘いのあとに残された「万骨枯る」さまをいうのでしょうか。

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